1971年巻き髪のロングヘアにホットパンツからすらりと伸びた足、元祖あひる唇で舌足らずな可愛い女の子が、銀座のクラブでタレントにスカウトされました。
風に吹かれてきたかのように、京都から銀座にふらっと現れたので、風吹、そして語呂合わせにジュンという芸名をもらったその女の子は風吹ジュンです。
風吹ジュンは京都から風に運ばれてデビューした少女だったのです。
1973年そのキュートな容姿で初代ユニチカマスコットガールに選ばれました。
さらに有名カメラマン、デイヴィッド・ハミルトンが撮った、ソフトフォーカスの写真集が男性誌を飾ると、爆発的な人気となります。
風吹ジュンは、今で言うグラビアアイドルでした。
1974年「愛がはじまる時」で歌手デビューしましたが、舌足らずの歌があまりにへたくそだったせいで、かえって人気に拍車がかかります。
しかしその人気もつかの間、風吹ジュンが暴力団員に誘拐され、警察が出動するという大騒動が勃発します。
三つ巴の事務所移籍問題が原因で、当時の芸能界の暗部を白日にさらすスキャンダルとなってしまいました。
風吹ジュンはアイドルとしての人気は急落しますが、その後、独特の存在感で女優の道を歩むことになります。
1979年心機一転ヌード写真集を出版するとともに、故松田優作の代表作「甦る金狼」に出演し、松田優作との大胆なベットシーンが大変な話題となりました。
映画は大藪晴彦のハードボイルド小説が原作で、日常は冴えないサラリーマンを演じながら肉体を鍛え銃の扱いを覚えた男が、会社を乗っ取る計画を立て、経営幹部や暴力団と壮絶な戦いに挑むというまさにハードな作品でした。
「甦る金狼」での風吹ジュンは、男が会社の情報を得るためにヘロインを使って重役を籠絡する情婦役でした。
この作品で腹を据えた風吹ジュンは本格的に女優の道を歩むようになります。
1981年に結婚しますが、この結婚相手がとんでもない人物でした。
1960年麻布に開店した「キャンティ」というイタリア料理店は、60年代から70年代にかけて次代を担うさまざまな文化人や芸能人が集った伝説の店で、オーナーは明治の元勲後藤象二郎伯爵を祖父に持つ川添浩史で、風吹ジュンは、その息子川添象郎と結婚したのです。
息子の川添象郎もYMOや荒井由美の音楽プロデューサーを務めただけでなく、イヴ・サンローランやピエール・カルダンの日本におけるコンサルティングや、さまざまなイベント・空間プロデューサーとして一世を風靡します。
80年代夫の川添象郎はマルチプロデューサーとして絶頂期にあり、一方、風吹ジュンはマイペースでテレビや映画に出演し続けます。
決して気を負うことがないナチュナルな演技に評価が高まるとともに、いくつになっても衰えない美貌で新たな人気を呼ぶようになりました。
風吹ジュンは川添象郎との間に一男一女をもうけました。
1992年川添象郎の想像を絶する女遊びや放蕩生活が原因となって離婚します。
川添象郎は離婚後、バブル崩壊とともに没落しました。
麻薬所持や恐喝傷害事件などを何度も引き起こした上、2014年、懲役2年の実刑判決を受け、いまだ収監中です。
1992年に離婚した風吹ジュンは40歳になっていました。
しかしその時、風吹ジュンは俳優としての地位をすでに確立していて、汚れ役やお母さん役もこなせる名女優になっていたのです。
女優というものは、努力だけでなく、その経てきた人生や感性といったものも、重要な要素なのかもしれません。
そしてその風吹ジュンが、2015年9月から2016年4月に放送された国民的朝ドラマ「あさが来た」で、重要な役どころを担うベテラン女優になるとは、芸能界とは、ほんとうに分からないものです。
ヒロインの姑役の風吹ジュンは、舅役である近藤正臣とともに、ベテランとしてドラマを大いに盛り上げています。
スキャンダルにまみれたグラビアアイドルが、芸能界のレジェンド「キャンティ」の御曹司、川添象郎と一発逆転のシンデレラ結婚。
そして泥沼の愛憎劇の果ての離婚と、元夫の没落。
その後、女優として自立した現在。
風吹ジュンは、その芸名の通り、芸能界の荒海を風に乗って駆け抜けてきたようです。
名前 |
京都市立花山中学校 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-581-5128 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
テニスコートの南側。
田んぼにすでに水が張ってありました。