那須資晴が改易されたのちの居館跡です。
他の方が説明しているように、那須資晴が改易されたのちの居館跡です。
城跡と言うには少し規模も小さく単純な作りかもしれません。
西側の土塁は下草も刈ってあり良くわかりますが、北側~東側は竹や笹の藪がひどく何がなんだか分かりませんでした。
土塁と掘が残っています解説板もあります。
久しぶりに訪れたらきれいに伐採草苅されて見易くなってました。
2019,6.25 光丸山法輪寺の駐車場に入り奥突き当りを右折方向に細道を辿ると、舗装のT字に出ます。
そこを右折した、右一帯が佐良土館跡。
(と、私は認識しました)。
少し行くと川に右折する小橋があります。
岩川の館橋です。
これを行くとすぐに右手荒れ地の奥に標柱・看板が見えます。
ここの字名は城の内。
近くの屋号札は「お城」です。
没まで20年しか居なかったようですが、字名や屋号にその名残を残す。
如何に当時の武将たるものとは!? と、感慨が深まります。
外観、岩川と小川に囲まれて土塁を廻し、中は田んぼです。
ちなみに頭書の細道、逆から行こうとすると「私有地通行禁止」の立て看があります。
天正18年(1590) 烏山城主那須資晴は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、所領を没収されわずか5千石を与えられ佐良土館に隠棲した。
資晴一代の一時的な館であるが、それ以前にも佐良土宮内少輔が館を構えていたと文献上にあるが、詳細は不明。
慶長14年(1609)資晴か没し、当館も廃された。
嫡子那須晴景は父の遺領を併せて1万4千石となり、福原要害城を居城とした。
名前 |
佐良土館跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.0 |
2024/5/5那須氏の隠居地。
薮化によりほとんど分からないが、堀跡や土塁の一部が確認できる。