遺構はあまり残ってませんがかなりの激戦地だったらし...
安祥城址(安祥城跡) / / / .
本多忠高の墓碑があります。
1797年に子孫である岡崎藩主本多忠顕により、戦死したこの場所に建てられました。
愛史協史跡巡りで行きました。
城祉以外にも物凄く立派なお寺や施設が有り見所が沢山あります。
平日昼間に訪問小規模な平城の遺構とされる地方豪族が活用したとされる小規模な砦跡現在は跡地に寺院が建立され当時を偲ばれるものは少ない併設された博物館と共に見学すると良いだろい。
安城松平氏が岡崎に居を移す前にいた城。
大乗寺に城址碑が立ち、切岸などもあります。
松平氏を語るうえで重要な城ながら遺構に関してはあまり面白くないかも・・(^^;歴史博物館があるので見てから帰りましょう。
立派な資料館が隣接してます。
曲輪の跡がお寺と神社になってます。
遺構は少ないですが曲輪構成の解りやすい城跡でした。
別名森城 本丸跡は大乗寺、二の丸跡は八幡社になっています。
堀や土塁が残っているとのことですが、いまいちよく分かりませんでした。
城跡という感じはあまりしません。
西三河の城跡公園は本当に立派です。
歴史博物館と公園が併設されています。
安祥城跡もその一角にあります。
安城だと思っていましたが、安祥城なんですね。
歴史探訪には最適です。
遊具も新しくなり、孫を連れて行きました。
安祥城の跡達意外と探すのに苦労しました。
遺構はあまり残ってませんがかなりの激戦地だったらしく周辺には犠牲者を弔った塚がたくさんあるとか。
今も掘ると鉄砲の玉とかが出てくるらしいです。
盛り上がった地形や堀の後などをみてあり日の姿を想像することができます。
本多忠勝公の父親の墓所も伝えられています。
交差点から見ると、お寺の門前に石碑があるくらいだと思いきや、反対側に公民館、歴史資料館など大きな施設が建てられていて、それらの駐車場が広くて便利。
廻りを白壁と石垣風に綺麗に作ってあり、観光気分が上がります。
芝生広場の様な城址公園に復元された壕を眺めるように道路脇の歩道がキレイに整備されています。
ただ天守閣や櫓等が無いので知らなければ、お土産屋さんとか、観光施設に見られるかも。
濠の再現と井戸、定石の址が有ります。
整備される前のが趣がありました安祥松平 後の徳川家の本拠地織田信長が最初に鉄砲を使用した地伊勢新九郎 後の北条早雲もここで手痛い敗戦を経験してます 戦国期の城の雰囲気は今も健在です。
桜がなくても楽しめます。
織田氏と今川氏の争奪戦の城。
安城城跡。
碑はあるが、遺構はない。
尾張と三河の境目の城。
織田信長の父織田信秀と徳川家康の祖父松平清康が戦った場所。
徳川四天王の一人本多忠勝の父忠高の戦死した場所でもある。
お墓もある。
後に、清康が尾張を攻めてる時、家臣の裏切りにあい清康は暗殺されてしまい。
主を失った松平氏は弱体化し安城城は織田方が城を奪われて、しまった。
その時、城主に織田信広(信長の兄)である。
清康の息子広忠は駿河と遠江を今川氏の配下となり安城城を今川軍が攻撃し落城。
城主だった信広は生け捕りにされてしまう。
ただちに信秀は今川氏に息子の返還を求め。
今川氏から信広返還の条件として当時、織田方の人質だった竹千代(後の徳川家康)との交換として信広を返還するとの条件がだされ信秀はその条件をのみ信広は織田方に返された。
竹千代は今川方の人質になる。
ここから、竹千代の今川氏の人質生活が始まる。
後に、信秀のあとを継いだ信長と今川氏から独立した徳川家康の同盟が成立すると、この城の役割はなくなる。
歴史の重要なポイントになった城。
戦国時代に作られた安祥城の跡です。
本丸部分は現在は大乗寺になっています。
道路から見ると大乗寺はやや高い場所になります。
こういう場所に城は築かれるのかということがよく分かります。
安城市民の憩いの場です。
名前 |
安祥城址(安祥城跡) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0566-76-4097 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/maibun-sites-ansyoujou.html |
評価 |
3.5 |
春に行って紅葉したら綺麗だろうって狙って出直したらヤッパビンゴでした。