歴史感じる杵が森古墳公園。
杵ガ森古墳の特徴
3世紀頃に築造された前方後円墳が楽しめます。
古墳前期の45㍍の大きさを実感できる場所です。
現在は公園として地域住民に親しまれています。
前方後円墳。箸墓古墳(奈良県)と一致点が多い。
古墳前期の45㍍の前方後円墳で、現在は公園になっています。遠目だと形が良く残っているのが分かります。子供達が走り回るこの古墳がもしかしたら福島県では最古の古墳かもしれない、な~んて、ちょっと楽しいかも!
保護しなければならないのはわかりますが、もう少し見やすくしてもいいと思います。
古墳跡を公園として整備しており墳墓を型どりしています。
名前 |
杵ガ森古墳 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0242-83-3010 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.0 |
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杵が森古墳は3世紀頃に築造された前方後円墳。HKは、奈良県にある、箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、その隣にある纏向遺跡が古代ヤマト王権の首都であったと考えている。会津坂下町にある杵が森古墳は、箸墓古墳と同じ土木技術でつくられた。つまり戦乱統一ではなく、話し合いで統一がはかられ、その証として前方後円墳の土木技術を地方王権に与えたと考えている。2世紀終わりから3世紀初頭までの気象を樹木の年輪で解読してみると、全国的に長雨の水害にみまわれ米が取れなくなっていたと報告する学者がいる。奈良県の箸墓古墳あたりは河川が少なく水害の被害がなかった。ヤマト王権が提供した土木技術が、稲作技術の発展に寄与したと考えられる。会津坂下町に前方後円墳があったということは、古代には地方豪族の本拠地が会津坂下町にあったということになる。以降なんらかの事情で会津若松市にあたりに中心地が移動したと考えられる。杵が森古墳あたりは、海抜178m鶴ヶ城あたりは海抜231m差は53m長雨で杵が森古墳あたりが水没し米が収穫できなかったので、中心地が鶴ヶ城あたりに移動したのか。そういえば、会津という地名は、崇神天皇(すじんてんのう)の時代に、裏日本の北陸道を下る大彦命(おおびこのみこと)と、表日本の東海道を下る建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の親子が、この地で出会ったことに由来すると言われている。古くは「相津」と書かれていたが、後に現在の「会津」へと変化したと言われている。HKは、バラエティ枠で放送した最近の前方後円墳の研究成果を、2021年5月29日(土) 午後11:00-午後11:59放送の報道番組ETV特集で、選「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す~」として取り上げ、言葉巧みに視聴者の判断を限定しないようにしながらも前方後円墳問題を取り上げていた。宮内庁が立ち入りを許可しない云々だからと説明されていたが、宮内庁は総務省の下部組織。現在は国民主権の日本国憲法下であり、国民の代表である国会が古墳発掘許可の法律を通したら、箸墓古墳の発掘が前へ進むはず。NHKはそれを期待しているのかもしれない。