名前 |
加藤公殯處碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
5.0 |
この碑は加藤清正公がここ赤尾口で荼毘に付されてから(「だびにふす」と読み、日本では「火葬すること」の意味で、清正公の母もこの地で火葬)300年後の明治42年に殯(もがり)處の跡ということで、清正公三百年会の方々により建立されました碑です。
この碑がある場所は上熊本駅近くの九州森林管理局の敷地内の木立の下にあります。
この場所のすぐ北側には熊本城の外城として、北からの侵入を防ぐ役割を持つ「赤尾丸城」がありました。
慶長16年(1611)に清正公が亡くなった時、この赤尾口の丘の上で、もがりの儀式後、荼毘に付され遺骸は中尾山に運ばれ埋葬されました。
殯(もがり)とは、死者を葬る(=本葬する)前に、一定期間、棺に遺体を納めて祀る儀式のこと。
死者の霊を慰める、あるいは故人を偲ぶといった意味・意義のある行いで、日本古来、殯は「貴人の弔い方」として営まれてきました。
殯(もがり)が行われた赤尾口の場所には庵が建てられ、「静慶庵」と名付けられました。
今では「静慶庵」もなくなっていますが、明治42年の「清正公三百年遠忌」の際に「静慶庵」の跡にこの碑が建てられています。
この碑文には、このように記されています。
「今より三百年前、ここ赤尾口において公の遺骸を荼毘に付し、遺骨を中尾山に葬った後、ここに一寺を建て静慶庵と号した。
庵は廃れて今は塚が一つあるのみだが、その塚(壟冢)が殯處の跡である」(中尾山は現在の本妙寺山)この場所は熊本城の北の守りとしての外城の赤尾丸城があったすぐ南側であり、本妙寺を真西に望むこの場所を清正公とのお別れの場所としたのでしょう。