立石の中川沿いにある帝釈天への道標。
帝釈天への道標。
江戸時代にはあったと思われる。
確かに帝釈天道標はありました。
歴史を感じます・・・。
歴史を感じさせます。
本奥戸橋のたもとにある馬頭観音と道しるべ、喜多向観音、立石さま、熊野神社などあわせて訪ねてみて下さい。
江戸時代の庶民は道標を頼りにあちらこちら参詣の旅をしていた、と想像すると楽しいですね。
江戸時代から明治の頃は渡し舟が今の高砂、青砥駅近く、奥戸橋、上平井水門の手前に有ったようです。
尚、立石のバス通り、奥戸街道は古代の東海道で、今の鐘ヶ淵辺りから四ツ木、立石、奥戸を経て下総国府のあった国府台の手前まで何となくまっすぐに延びているのが地図で分かります。
当時は中川も江戸川も今の流路とは違うようです。
今から半世紀前までは、本奥戸橋のたもとから南蔵院方向へ料理屋のような建物と数件の簡易建ての民家が今の河川敷の中に有ってこの部分は緑道が幅広くて、痕跡が感じられます。
橋を渡った奥戸側には昔は旅館があり、また中川で投網の舟遊びができた優雅な時代もあったようです。
葛飾区の散歩ルートマップの立石編に記載があって実際に散歩で立ち寄りました。
江戸から柴又帝釈天への参詣道だったんですね。
中川の改修とかその後いろいろあったようなので、あったはずの帝釈天道なんだけど、今ではその道のイメージがなかなかわきませんでした。
立石の中川沿いにある帝釈天への道標。
1820年に建立されたという。
小さい道標なのですが周りには何もないのですぐに分かるかと思います。
近くには立石様、安倍晴明創建の立石熊野神社があります。
名前 |
立石の帝釈天 道標 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
昔は河川や運河に沿って街道があったと思われるので、その時代の忘れ形見でしょうか。
(この道標の左側面に文政三年とあり。
文政三年は西暦1820年です)