父の四十九日を、行ってもらいました。
友人の御母堂様の葬儀にいってまいりました。
見事な樹が由緒ある寺院を物語っています。
駐車場はやや離れていて無舗装のでこぼこですので雨の日はきっと困るでしょうね。
施設内にある松の木が、市の指定天然記念物になっています。
また紫陽花やハスの花など季節毎に綺麗なお花が咲い非常に心地よい空間のお寺です。
お花の手入れをしてくださる方に心から感謝です。
一周忌で訪問しました。
廣福寺は、当地の豪族福島氏が菩提寺として南北朝時代に建立、直菴(応永18年1411念寂)が開山したといい、南北朝時代の銘が刻された石碑が残されているといいます。
その後徳川家の旗本内藤氏が福島を知行したことから、内藤源左衛門正頼(仁徳院殿力誉空勢大居士)が当寺を中興、内藤家累代の墓が境内に残されているといいます。
かつて、享和三年(一八〇三)に寄進された梵鐘があったが、第二次世界大戦の際に供出したため、昭和三七年に新鋳したものが現在の梵鐘である。
境内にある黒松は樹令六〇〇年と言われ、市指定の天然記念物となっており、また、「二千年蓮」があり、開花の時季には観蓬の客で賑わっている。
菩提寺!住職と息子さんも丁寧な対応でいつも接して下さり有り難いです。
臨済宗建長寺派の寺院です。
開山は南北朝時代で、元々は地域の豪族「福島氏」の菩提寺として建立された歴史との事です。
(確かにこの地域は福島集落と言い古くからの家も多い土地柄です)、また寺は崖下に位置していますが古代遺跡も出ていて昔からの営みがあった地であった事が分かります。
禅宗の寺院らしく庭がキレイで立派です。
また境内には昭島市天然記念物に指定されている大松もあって緑豊かです。
もちろん本堂は立派ですが、コンパクトな造りの中に存在感のある山門等の見所も豊富です。
3/17 彼岸の入に〜風も和らぎ暖かく富士山は雲の中でした〜😉11/15 お墓参りに〜菊が綺麗に咲いてます〜😉細物、厚物の大輪と良い感じ〜💮2/14 広福寺さんに〜住職さんと七輪囲んで話を〜😉5/20 アジサイが咲きだしました~木はまだ小さいけど綺麗な花をつけてます。
鎌倉の建長寺派のお寺です。
母の実家のお墓がこちらにあり、先日伯父が亡くなったときにはこちらで法要を執り行って頂きました。
先代の住職から私は存じていますが、こちらのお寺のお経はとてもわかりやすく、現在の住職や副住職の声をハッキリとわかり、素晴らしいお経を上げて下さいます。
伯父は一人暮らしで合同墓地に入れて頂いたのですが、49日法要まではお寺でお骨を預かって下さり、7日毎にお参りに来れば良いと仰って下さり、私も仕事上夏休みの1日だけ伺いましたが、気持ちよく受け入れて下さいました。
とても亡くなった方の遺族に寄り添って下さるお寺だと感じます。
昔ながらのお寺です。
墓参りに行ったのですが、掃除など行き届いていました。
少しだけ本堂にお邪魔したのですがとても静粛な気持ちになれます。
機会があればぜひ説法なども聞いてみたいなと思いました。
こちらの松の木が市指定天然記念物になりています。
それよりも、本堂前は小さいながらなんか居心地が良い。
手入れがされていて、緑が多いのかな。
見応えのある素晴らしい松ノ木がお薦めです。
可愛いお地蔵さんが六こあります。
臨済宗建長寺派のお寺で、室町時代応永18年(1411年)、立川柴崎村普済寺三世直庵が、当時、当地を治めていた豪族の福島氏の菩提寺として、または普済寺の隠居寺として建立したとされています。
私が子供のころ、広福寺で友達と遊んでいると、住職が『寺の裏山で土器が見つかるかもしれないから探してごらん』と言われたので探してみると、本当に小さな土器の破片がいくつか見つかりました。
このお寺で特筆すべきは、武田二十四将・武田四天王、また武田の副将と評された内藤修理亮昌豊の孫と言われている内藤源左衛門正頼(正久)と、その親族、子孫の墓があることです。
内藤昌豊自身は設楽ヶ原の戦いで壮絶な最期を遂げ、その四男の内藤源助正重(昌家)とその子供の正頼は、他の兄達の様には行かず、武田家滅亡以前に武田家を離れ各地を放浪したすえ、山梨県東部に隠れ住んだようです。
徳川方が甲斐・信濃地域の統治を進めるなか、旧武田家臣たちに身分と土地を保証し、その地の治安維持と上杉や北条方への守りとしました。
正重達も元武田家臣で、この地にも詳しかったことから徳川方に見出され、天正10年11月17日、150貫文分の領地を賜り、地域一帯の治安維持にあたることになります。
この時、徳川方は、まさか正重等が昌豊の親族とは思っていなかったでしょう。
正重も敗残の兵として敢えて言わなかったと思われます。
そしてこの地で、18年余り暮らすことになります。
慶長3年に豊臣秀吉が無くなると天下はまた混乱し戦が続くようになります。
慶長5年の関ヶ原の戦いの前後では多数の兵が出兵し、江戸の防備が手薄になったため各地の地侍が登用されます。
この年正重達も番方として新たに江戸城勤務として登用されることになります。
この時初めて徳川方も、正重達が、あの武田の四天王の内藤修理亮昌豊の子や孫という事が分かったと思います。
当初は下っ端の番方の与力か同心、江戸城の門番程度での登用であったと思います。
しかし、急きょ、旗本格の番頭か組頭、若しくは大番に登用になったようです。
その後屋敷も賜り勤務に励みますが、正重は、元和元年の大坂夏の陣で戦死してしまいます。
この間の前後の時期に正頼が福島領を拝領したと思われます。
領主や地頭は普通あまり貰った土地に関心を示さず裁量は代官に任せてしまいますが、徳川体制も初期の時代であり、正頼も苦労してきたためか、自分が拝領した土地に関心を示したようです。
視察に行った福島村や広福寺の様子は長い戦乱のため荒れ果てていました。
信心深い正頼は自分が拝領した福島村や広福寺の現状を不憫に思い、家督を息子の正総に譲り福島村と広福寺の復興に力を尽くすことにしたようです。
文化・文政時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、名前や話の内容が少し違うのですが、「広福寺の中興開基は、地頭の内藤源助の祖先で、源左衛門正清、甲斐の国から当地に来て暮らし、広福寺を復興する」と書かれています。
正頼は広福寺に住み込み、福島村と広福寺の復興に尽力したようです。
今、福島会館があるところは、以前は堰免(せきめん)という地名で、福島村の共同所有地で、ここでとれたお米には年貢が掛けられず、売ったお米の代金は村で好きなように使えたそうです。
これも正頼か、その子孫の配慮だったかもしれません。
その後正頼は当地で、元和8年8月23日に亡くなりました。
お墓は段丘の中腹に、広福寺が見えるように東側を向いて建てられています。
正頼の妻や息子、その後の何代かの当主が広福寺にお墓を建てています。
その後の累代の内藤家の当主は家族を連れ度々広福寺を訪れたそうです。
そのため福島の古い人の中には、今でも、内藤のお殿様やお姫様と言う人がいます。
広福寺には内藤家から贈られた刀が伝わっており、定期的に刀の手入れをしているそうです。
また福島には、元武田家臣の姓が幾姓か見受けられ、薬袋氏(みない氏)もその一氏族です。
薬袋氏は武田の浅利一族の一派で、文献にもその名が散見できます。
もっとも有名なのは、薬袋小助で、武田勝頼・信勝の最期までお供をしました。
また薬袋氏の一部は内藤家に仕えていたという記述もあり、主従関係にあったようです。
薬袋氏がいつの頃に福島地域に住み着くようになったのか。
武田家滅亡後、一部の薬袋氏が、偶然、福島に住み着き、その後内藤家の領地になったのか。
それとも内藤家の家臣として江戸まで付き従い、その後、福島を拝領した時に福島村や広福寺の復興に当たり共に移り住んだのか。
詳細は現時点では分かりませんが、正頼の墓の一段低くなったところに、薬袋家の先祖の墓が、まるで正頼に付き従うかのように建っているのが印象的です。
住職のお人柄最高です‼主人の1周忌法要には有りがたい 暖かいお言葉を頂き涙がとまりませんでした。
副住職のお声も最高です。
有りがたいお経を有り難うございましたm(__)m
名前 |
広福寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
042-541-0508 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
父の四十九日を、行ってもらいました。
母が七年前に、お世話になったんですが、住職さん達には、とても良くしていただきました。
お勧めな、お寺さんです。