南部五竹(なんぶ ごちく)の3人のことです。
三士とは、幕末維新の際に活躍した東沢瀉(ひがし たくしゃ)、来栖天山(くるす てんざん)、南部五竹(なんぶ ごちく)の3人のことです。
・東沢瀉(ひがし たくしゃ)天保3年(1832年)生まれ。
慶応2年(1866年)四境戦争 芸州口の戦いの後も、国境に接する岩国には幕府軍の再侵攻が危ぶまれ緊迫した状況が続いていました。
それなのに、岩国藩は保守派に支配され兵器は旧式のままで、なんの対策もとられていませんでした。
それを危惧した東沢瀉と来栖天山は、必死組(のちの精義隊)を結成し、藩風改革を訴えました。
しかしながら、隊士の粗暴な行動の責任を問われて沢瀉と天山は、柱島に流刑となりました。
沢瀉は明治になり赦され、保津の海辺に住み塾を開きました。
・来栖天山(くるす てんざん)天保10年(1839年)生まれ。
東沢瀉とともに柱島に流刑になった天山は、沢瀉を救うため島から密かに脱出し、同士に所思を訴えました。
しかしながら、賛同が得られず、慶応2年(1866年)12月9日、自刃して果てました。
享年28歳。
・南部五竹(なんぶ ごちく)天保2年(1831年)生まれ。
来栖天山が自刃したのち、南部五竹は東沢瀉を柱島から救出して、奇兵隊と合流し尊王攘夷の志を達しようとしました。
しかし、事前に策がもれて捕らえられ、慶応3年(1867年)8月23日に妙覚院にて処刑されました。
享年37歳。
名前 |
三士誠忠の碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
2016/10/16来訪。
明治25(1892)年に旧岩国藩公と藩の有志により吉香神社内に建てられた、岩国三士(栗栖天山(くりすてんざん)・南部五竹(なんぶごちく)・東沢瀉(ひがしたくしゃ))の活躍を伝える碑です。