名前 |
西山古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
遺跡名:西山1号墳現在地:三重県松阪市嬉野川北町古代地名:伊勢国壱志郡須加郷現状:西山に入った山林の中に古墳が現存している。
西山は三重県農業研究所敷地内を通った場所にある。
付近に駐車場がある。
墳形:前方後方墳規模:全長43.6m、後方部幅24m、前方部長さ17.5m(三重県史)築造時期:3世紀末~4世紀初頭(嬉野町史)。
4世紀中葉(三重県史)※嬉野町史は10期編年外表施設:葺石はされなかった埋葬施設:不明出土遺物:特に無し備考:西山古墳群の中で最大の1号墳である。
前方部を北西に向けている。
山林の中にあり古墳までの道は不明瞭である。
古墳がある西山は高さが約28mの低山で三重県で一番低い山と言われている。
西山1号墳の周辺には方墳1基と円墳1基があるらしいが分からなかった。
・1966年に盗掘を受けた。
翌年の1967年にブルドーザーで後方部を故意に破壊されたが、盗掘や破壊した犯人は不明とされている。
1966年に西山での土取り作業は教育委員会への通報で中止になったので、ブルドーザーの使用は土取り目的ではないとされる。
「西山古墳群は、川北集落の西側にある三重県農業技術センター内の標高約28mの丘陵上に位置している。
北側の沖積地とは約22mの高低差がある。
計3基の古墳で構成されるが、特に1号墳は、狭長な丘陵頂部に築造された全長約43mの前方後方墳である。
墳丘の前後に小型古墳を伴い、後方部後面には一条の溝が巡る。
平成13年度には、西山古墳群の環境整備に伴い、墳丘の一部に試掘調査が実施された。
昭和40年代に主体部は徹底的な盗掘を受け、しばらく後には重機で墳丘が故意に破壊され、その後、破壊前の測量図をもとに旧形に復元されたという。
現地での観察によると、後方部後面の溝や、後方部左側面の付属施設はそのまま確認できることから、破壊・復元は後方部上半において為されたものと予想される。
なお主体部や副葬品については全く不明である。
」【参考文献・嬉野町史】「西山古墳は全長43.6m、前方部26.1mの前方後方墳です。
盗掘や土取りにより一部改変されていますが、現在は改修されています。
西山古墳は、墳丘に葺石などの外表施設は設けず、南側に周溝が確認されています。
他に測量調査では後方部西側に造り出し状突起が確認され、墳丘外に別区が存在する可能性があります。
年代については墳丘の形態などから、4世紀前半段階の古墳であると想定され、町内の前方後方墳の中でも最古形式の古墳である可能性があります。
町内には他に向山古墳(国史跡)、筒野古墳(一志君塚)などの前方後方墳があります。
」【西山古墳の案内・解説看板より引用】「西山古墳は全長43.6m、前方部26.1mの前方後方墳です。
これまで盗掘や土砂の採取で一部改変されており、現在は当時とは異なった姿になっています。
古墳は墳丘に葺石などの外表施設は設けず、南側に周溝が確認されています。
測量調査では後方部西側に造り出し状突起が確認され、墳丘外に別区が存在する可能性があります。
年代については墳丘の形態などから四世紀前半段階の古墳であると想定され、旧嬉野町内の前方後方墳の中でも最古の形式の古墳である可能性があります。
町内には他に向山古墳、筒野古墳(一志君塚)などの前方後方墳があります。
現在は、クヌギ、マツ、サクラ、ササ、ススキなどに覆われています。
古墳の東部に隣接する丘陵地の西山(標高30.8m)は、一志断層の東に広く分布する新第三紀層鮮新世奄芸層群の一部で泥岩、砂岩で構成されています。
土壌は未熟土(Immature Soils)で腐植層の発達は弱く、養分状態は不良です。
」【三重県公式ホームページ内の農業研究所より引用】・一志郡嬉野地域にある5基の前方後方墳は、約5㎞四方の範囲に集中しているのが極めて特徴的である。
このように前方後方墳が密集している地域は、岡山県北部の美作(みまさか)地方の勝央町が知られている。
なお伊勢地方に前方後方墳が造られた背景はヤマト王権ではなく東海地方との関係があるとされる。
大型の前方後円墳が多い伊賀地方とは対象的である。
・一志郡内の前方後方墳は庵ノ門古墳・西山古墳→筒野古墳→錆山古墳→向山古墳の順に築造されたと推定されている(築造順は諸説あり)。
いずれの前方後方墳も被葬者や築造勢力は、古代一志郡を支配した豪族の壱志氏が有力であり、継続的に造られた前方後方墳は累代の首長墓と考えられている。
壱志君は「古事記」によると、孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子で天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする皇別氏族とされるが、一般的には和珥(わに)氏の支族とされることが多い。
和珥氏は「古事記」では春日臣、「日本書紀」では和珥臣とあるが、どちらも同じ和珥氏である。
記紀とは時系列が違うが、和珥氏が後に春日氏を名乗ったので、和珥(春日)氏が正しい。
一志郡の南には、壱志君と同族の飯高君が支配する飯高郡があり、伊勢地方で最大の前方後円墳である「宝塚古墳」が存在している。
古墳時代の伊勢地方では壱志・飯高の両氏が繁栄していたことが分かる。