新撰組の幕末史跡、保存必須!
大利鼎吉遭難の地の特徴
新撰組が大坂で活動していたことを知ることができる史跡です。
旧土佐藩士田中光顕の書による碑文が見られる大切な場所です。
幕末の土佐藩勤皇の志士、大利鼎吉に繋がる重要な史跡です。
新撰組が大坂でも活動してた事を知った。
このような史跡は今後も保存していく必要があります!
旧土佐藩士田中光顕の書による碑文が立っています。横のビルに詳しい説明看板あり。
空掘のシブい所にあります。すっかり昔のと言った感じではありますね。
松屋町筋に面してます。ビルに説明があります。此処に建立される「贈正五位大利鼎吉遭難之地」の碑は、旧土佐藩士田中光顕の書による史蹟の証である。遭難した大利鼎吉は名を正樹といい、武市瑞山が組織した土佐勤王党に、坂本龍馬や中岡慎太郎とともに名を連ねた。さらに五十人組や長州の忠勇隊にも所属した壮士である。元治元年七月十八日(一八六四・八・十九)に勃発した蛤御門の戦いでは、忠勇隊々士として参戦したが、敗れて長州へ遁れた。その後、再び上京して形勢をうかがっていたところ、旧忠勇隊の田中光顕など八人の同志たちが、道頓堀の鳥毛屋という旅宿に集い、大坂城並びに市街焼討ちの密議を凝らしていることを知って、鳥毛屋に合流した。その頃、南瓦屋町でぜんざい店を営む同志の石蔵屋政右衛門こと本田大内蔵が、幕吏の目を警戒して、自邸の石蔵屋に同志たちを潜居させた。ところが、彼らと交遊のあった和栗吉次郎に対して、南堀江二丁目で町道場を開いていた新選組の谷萬太郎が、同郷のよしみから懐柔策をもって、浪士密会の諜報を引きだした。事件後、和栗を谷川辰吉の名で新選組に加盟させた谷萬太郎は、時を移さず、直ちに兄の三十郎と共に正木直太郎と高野十郎の門弟を従えて石蔵屋を襲撃した。ところが、石蔵屋には主の本多と大利の二人しかいなかった。四人の襲撃者が乱入した瞬間、本多は実を翻して逃走し、四人と対峙したのは大利鼎吉がだた一人であった。大利は新選組の大幹部で神明流の剣客でもある谷三十郎と種田流槍術師範の弟萬太郎に加えて、二人の門弟の四人を相手に孤軍奮闘、鬼神をも戦慄せしめる死闘を演じ、全身七ヶ所の傷を負って憤死した。大利の凄まじい闘魂は、正木直太郎が右腕に四寸ほど手負い、谷三十郎は足を少々、萬太郎は胸元を当てられたと、近藤勇と土方歳三へ報じた谷萬太郎の一文が伝えられている。ただ、高野十郎は刀槍にて大いに働くとあるので、大利は谷兄弟と正木の三人と戦っている隙を衝かれ、高野の槍で刺されたことを暗示させる・・・・・。それは、元治二年正月八日(一八六五・二・三)のことだった。享年二十四歳。辞世 ちりよりも かろき身なれど 大君に 心ばかりはけふ (今日) 報ゆなり大利鼎吉は明治十六年(一八八三)五月五日、靖国神社に合祀され、同三十一年(一八九五)七月、正五位を追贈された。旧忠勇隊同志の大坂焼討ちの暴挙を阻止した、新選組の石蔵屋襲撃事件を顕彰すると共に、池田屋騒動で活躍した谷兄弟やその門弟など四人の猛者を相手に、阿修羅の如き死闘を繰り広げた大利の勇魂を称えるための銘文とする。
大利鼎吉は幕末の土佐藩勤皇の志士。この地にあったぜんざい屋を根城としていたが大坂新撰組の襲撃により斬殺される。世にいう「ぜんざい屋事件」。今では碑があるのみ、周りは駄菓子屋で売られているお菓子の問屋が集まっている。問屋ではあるが小売も可なれどロット売り。
| 名前 |
大利鼎吉遭難の地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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幕末の新撰組の活動に関わる碑が建っています。碑が建立されたのは、昭和12年です。よく今まで持ちこたえましたよね、こんな大通りの真ん前なのに。何度か移転や改修もあったでしょう。大事に扱われてるんですねぇ、感心しました。