天川八坂神社の美しい配置。
八坂神社の特徴
天川八坂神社は、見事に配置された境内が魅力です。
千数百年の歴史を感じる古代文化の中心地です。
御祭神は須佐之男命で、由緒ある神社です。
天川八坂神社御祭神 須佐之男命この地は、もと天川と称し前橋發祥の地として、千数百年をこえる古墳時代より古代文化の一中心をなした由緒深いところです。嘗ては、地域内に史跡二子山をはじめ、多くの古墳がありましたが、今はほとんど失われました。奈良時代には上野國を東西に貫き、さらに大和地方に通ずる官道がこの地を通り、その後も「あづま街道」と呼ばれ徳川時代には、江戸への出口として榮えました。古くは利根の本流がここを流れていましたが、その変流に従い厩橋城が築かれるに及び、多くの住民はこれに従って北西の城下町へと移りました。残った人びとは恵まれた自然と環境に幸せな天川の歴史を刻んできました。たまたま、昭和四十二年(1967)五月一日、新住居表示の適用を受け、隣接町と分割あるいは合併して新たに文京町と改められ、古くより親しまれた天川の名は、一部を残して永久に消え去りました。この間、住民擧げた古い地名の存續を願い努力しましたが、ついに成りませんでした。ここにおいて、住民ひとしく「天川」の名を愛惜し、せめてこれを石に刻み子孫に傳えようと圖り、一碑を建て歴史の変遷を偲ぶよすがとするものです。(境内「天川地名愛惜之碑」参照)前橋の伝説百話「奈良の大仏と小沢若狭守」昔、聖武天皇の詔によって奈良の大仏が造られることになりました。この大仏を鋳造するににあたって諸国の有名な鋳物師が集められました。そのころ、天川に小沢隼人と言う鋳物師が住んでいて、このお召しに応じ奈良の都におもむきました。大仏も出来上がり、小沢隼人はその功績により若狭守に任ぜられ、日本でも有名な仏師となりました。天川に帰った若狭守は、八坂神社の御神体牛頭天王を三体鋳造しました。一体はこの八坂神社に、もう一体は世良田の八坂神社に、最後の一体は旧横山町の小石神社へ分けられました。しかし文化年中(1804~1818)の火災によってたいへんいたんでしまったということです。この若狭守の弟子の一人が、山形に移って鋳物を始めたのが、羽前国山形名産の鋳物の始まりだといわれています。歴史上、聖武天皇は天平十三年(741)国分寺建立を発願し、東大寺に廬舎那仏造立の志を立て、天平十九年(747)その鋳造に着手し、天平勝宝三年(751)大仏と殿堂は完成、翌四年(752)四月九日、開眼供養会が行われました。この歴史的背景を考慮すると、こちらの神社の創建は相当古いことになります。この八坂神社は戦災で焼け、戦後中川小学校の奉安殿をもってきて社殿にしたとのことです。(昭和四十六年十二月十五日「広報まえばし」参照)前橋の伝説百話「牛頭天王ときゅうり」前橋の天川に八坂神社が祀られています。その御神体は牛頭天王であるといいます。この神さまは、ときたま村内や野辺をめぐり歩きに出ました。ある日いつものように野巡りをしていると、胡瓜畑を通った時に何かで目を突いてしまい、涙が出るやら痛いやらで大層悩まされました。このことがあってから、牛頭天王は胡瓜畑を忌み嫌うようになりました。そして胡瓜そのものも嫌うようになり、その後は出歩くこともなくなりました。これを知った天川の人たちは牛頭天王を気の毒に思い、胡瓜を決して畑に作らなくなり、亦例え他所で作った胡瓜であっても食べることは神慮にそむくこととして、一切胡瓜を口にしなくなったといわれています。(昭和四十七年一月十五日「広報まえばし」参照)
| 名前 |
八坂神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
027-372-4610 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
きれいに配置されていて、見事です。東方面を向いて鎮座しています。関東平野がよく見渡せる。