兵主神社の鶴と朱買臣、歴史を感じる。
兵主神社の特徴
兵主神社の社殿壁面に描かれた鶴は歴史を感じさせます。
朱買臣(しゅばいしん)が描かれた壁画も印象的で魅力的です。
名神大社としての独特な雰囲気が漂っている神社です。
兵主神社(ひょうずじんじゃ)。長崎県壱岐市芦辺町深江本村触。式内社(名神大)兵主神社参考社、旧村社。主祭神:素盞嗚命 大己貴命 事代主命資料によると、平安時代初期の弘仁2年(811年)、山城国日吉山王を勧請した。比叡山から村の卯辰の海辺一の瀬に到着し、今の京徳の丘である谷山に鎮座した。この際の勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で、当社家となった。古号は「日吉山王権現」。仁寿元年(851年)正月には正六位上に叙された。戦国時代の永緑10年(1567年)4月28日の棟札には山王三七社、江戸時代初期の慶長8年(1603年)4月29日の棟札に日吉山王三七社とある。江戸時代前期、延宝4年(1676年)、橘三喜が当社を聖母神社に査定した。現在の聖母神社が、式内社「兵主神社」とされた。しかし、箱崎八幡宮の祠官吉野末益が異を唱え、延宝7年(1679年)、当社が式内社「兵主神社」に比定され、聖母神社は復称した。元緑4年(1691年)2月には国主源任が御旗二流を、江戸時代中期の賓永4年(1707年)11月には国主源棟が御矛二本をそれぞれ寄進した。正徳5年(1715年)に正一位に叙され、現在は正一位兵主神社と称した。社領高2石、社殿再建ごとに国主より白銀5枚が寄進されたという。平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。明治9年(1877年)12月4日、村社に列し、大正3年(1914年)6月、神饌幣帛料供進神社に指定された。とあります。
お社の壁画が歴史を感じます。
名神大社としては寂れた印象の神社です。御朱印は寄八幡神社で受領出来ました。
兵主神社の社殿壁面に描かれた鶴と朱買臣(しゅばいしん)を見に参拝しに出かけました。絵はだいぶ薄くなっていました。絵の目的や作者は不明だそう。想像力を掻き立てます。朱買臣は前漢の政治家。
村社 兵主(ひょうしゅ)神社。神殿側壁に彩色の壁画(獅子と梅、鶴と人)がめずらしい神社です 。石段ではない坂道の参道というのも壱岐では珍しいかもしれません。聞くところによると、昔は壱岐の住吉神社と同じくらい格が高かった神社だったそうですが、当時の宮司が神社の重要な書物を燃やしてしまい格下げになったといういい伝えがあるようです。また、式内兵主神社として、現在存在していますが、これまでには複雑な経緯がり、延宝四年(1676)の橘三喜の式内社調査では、この兵主神社を聖母神社、現聖母神社を兵主神社としたようです。その後、延宝七年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を正しく聖母神社と戻したので、この神社は、兵主神社となってしまったとされています。壱岐國式内24座のうちのひとつ。但し、式内兵主神社の論社として本宮八幡神社もあります。鳥居は江戸期石造肥前鳥居です。祭 神:素盞嗚尊(スサノオノミコト)、大己貴神(オオメモチノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)祭典日:10月20日 例祭 神幸・大神楽。
村社 兵主(ひょうしゅ)神社。神殿側壁に彩色の壁画(獅子と梅、鶴と人)がめずらしい神社です 。石段ではない坂道の参道というのも壱岐では珍しいかもしれません。 聞くところによると、昔は壱岐の住吉神社と同じくらい格が高かった神社だったそうですが、当時の宮司が神社の重要な書物を燃やしてしまい格下げになったといういい伝えがあるようです。また、式内兵主神社として、現在存在していますが、これまでには複雑な経緯がり、延宝四年(1676)の橘三喜の式内社調査では、この兵主神社を聖母神社、現聖母神社を兵主神社としたようです。その後、延宝七年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を正しく聖母神社と戻したので、この神社は、兵主神社となってしまったとされています。 壱岐國式内24座のうちのひとつ。但し、式内兵主神社の論社として本宮八幡神社もあります。 鳥居は江戸期石造肥前鳥居です。祭 神:素盞嗚尊(スサノオノミコト)、大己貴神(オオメモチノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)祭典日:10月20日 例祭 神幸・大神楽。
| 名前 |
兵主神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0920-45-1263 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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雰囲気良いです。特に社殿の絵は素晴らしいです。御朱印ないです。