川越市指定旧跡と歴史の深み。
中島孝昌墓の特徴
川越市の県指定旧跡として歴史的な価値が高い場所です。
明和3年生まれの中島孝昌に関する貴重なスポットです。
五代目与兵衛の墓がある静かな環境で訪れる価値がある場所です。
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県指定旧跡(昭和36年9月1日)
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| 名前 |
中島孝昌墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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川越市HPより抜粋中島孝昌は五代目与兵衛で、明和3年(1766)に生まれ、字を済美、通称は徳三郎・与兵衛・徳右衛門と言った。絹屋は三代目から鍛冶町(現幸町)に住み、醤油醸造商に職替えして、大商人となり、やがて町名主となって行くが、四代目の父が没したとき、孝昌はまだ13歳であった。聡明好学であったがため、その歳で名主役を継ぐべく請われ、期待に応えんがため、読書筆硯に従事、学問を伊藤恒庵や海保青陵に就いて修めたと言う。孝昌は資性風流にして、狂歌・俳諧・漢詩・書画を能くし、茶の湯・生け花・謡曲までも嗜み、特に桜花を愛したため、桜曙・桜斎・其馨・酔春亭などの雅号をいろいろ持った。なかでも狂歌を最も得意とし、師匠は鹿都部真顔(しかつべまがお)であった。人となりは寡言端正、行為忠実と言われ、その親孝行ぶりは衆目の認めるところとなり、藩主から表彰された。母の古稀に当たって、賀の詩歌を集めた『文孝冊』を編んでいる。それに先だつ書として彼は享和元年(1801)に地誌『武蔵三芳野名勝図会』を著す。これは秋元家時代に藩士の手になる地誌『川越索麺』や『多濃武の雁』に比べてひときわ文学的薫りの高い作品で、川越地誌の白眉と称されている。孝昌は体が丈夫でなかったらしい。文化5年(1808)正月10日、病のため43歳で没。