( `Д´) 討つ者も 討たるる者も かわらけよ ...
三浦氏の居城、三浦城の跡。
北条早雲に三浦氏が敗れた際に落城したものの、豊臣秀吉が攻め落とすまで重要な城であり続けました。
2018/10/21かつては馬出や堀なんかも遺っていたらしいが、今は役所や学校等によりほぼなくなり、土塁が断片的に遺っているのみである。
現地に行ってみると分かるが、台地が周囲より盛り上がっており要害の地である。
20210306JR三浦市周辺のんびり散歩に出かけました!先ずは、幼少のころに家族で行った城ヶ島に向かいます!城ヶ島海南神社、海南神社で参拝を済ませ、すぐそばの三崎城跡に向かいます!カーナビに従い市役所の駐車場に車を停めて周囲を散策すると、市役所の東隣にある旧三崎中学校の南側の道路沿いに案内板が設置されており、縄張図と現況が描かれていました!三崎城域の大半が市街地となっていて、遺構はわずかに残るのみとの事です!案内板から東へ進むと三浦市慰霊堂へ続く道があり、その脇に大土塁が残っています!慰霊堂との間には、両側に堀が入り土橋となっています!本瑞寺の北側にある墓地の所にも土塁が残っていました!三崎城は、現在の三浦市役所一帯、旧三崎中学校付近に築かれていたとの事です!築城年代は定かではありませんが、三浦氏によって築かれたと考えられています!三浦氏が北条早雲によって新井城で滅亡すると、北条氏は水軍の拠点として三崎城を整備し、対岸の里見氏に備えたそうです!北条氏政の時代には伊豆韮山城主であった北条氏規が三崎城主も兼ねていたとの事です!
後北条氏が築いたとされる城です。
また、相模三浦氏の城で、その後、後北条氏の城になったとも言われています。
城主は北条氏規や、宅間上杉規富が努めました。
しかし、小田原攻めの際に廃城になったとされています。
そしてその後は徳川氏の家臣で水軍の向井正綱が三崎に入りました。
また、三崎の見桃寺には正綱の墓所があります。
現在は城跡に石碑、説明板と縄張り図があります。
ほとんどの遺構がなくなっていますがわずかに土塁などが残っています。
駐車場になっています。
地形的に見ると小高い丘の上に建っており、昔は恐らく城ヶ島や、三浦半島、東京湾などが一望できたのではと思います。
また、海に面しているので水軍の拠点として使われていたと思います。
記憶違いかもしれません 三崎幼稚園(廃園)園児だった自分 確かこの地に建物があってお遊戯やらをしていた記憶があります もうかれこれ45年も前の事です 三崎にて生を受けた自分 三浦氏・蘆名氏・北条氏 何だか深い縁があるよう思えます。
遺構はほぼない。
地形にわずかに名残をとどめる。
( `Д´) 討つ者も 討たるる者も かわらけよ 砕けてのちは 元の土くれ⊂⌒~⊃xДx)⊃
2020年3月11日 バイクで新井城址に続けて訪れました。
三崎港を見下ろす高台全体に広がる規模の大きな城があったようです。
今では学校などな公共施設や寺などになっていますが、多くの土塁跡が見られます。
昔の勇姿を想像できます。
三崎城は現在の三浦市に存在していた城で別名を三浦城とも云うそうです。
伝承によれば、鎌倉時代後期に相模三浦氏を興した佐原盛時の築城で、 新井城と単一の城を構成していたとも考えられているそうです。
城跡には市役所があり市の職員も詳しくないよう。
案内板がなければわからない。
もっとも私は戦争の碑を探していたのですが。
跡地の碑しか残っておらず、拍子抜けでした。
城跡の看板と地図があるだけで特に何もない。
案内板だけで、小学校や区の施設を取り壊した更地になっており遺構は見当たりませんでした。
特に何がある訳じゃないので、下準備で知識を得てからじゃないと、面白く無いと思います。
私はミニツアーで先生に解説してもらって見て回ったけど、そんなに面白くなかった。
三崎城址本丸跡付近に看板が立てられています。
この城は縄張りからも明らかに北条氏規公が城主だった時代、後北条流の築城であり、中世的な縄張りの三浦家の城ではありません。
小桜姫伝説で金を稼ぎたいカルトが、自分等の宣伝の為に無理矢理三浦家の関与を捏造しようとしますが三浦家による築城の事実は有りません。
戦国時代初期に三浦家を乗っ取った扇谷上杉家の三浦道寸公の跡継ぎ三浦義意公が建てた御寺が江戸時代に城址内に移転した為に、その経緯を知らない人間の妄言を生むようです。
鎌倉時代の三浦家は、各城主が在所を姓にして名乗りましたが、三崎を姓にする武将すらいませんでした。
この事実に関して具体例を挙げますと・・・●荒井(新井)城主、後に衣笠城主:平朝臣 三浦新介 荒(あらい)次郎 義澄●佐原城主:平朝臣 佐原義連●杉本城主:平朝臣 杉本義宗●岡崎城主:平朝臣 岡崎義実●和田領主:平朝臣 和田義盛 三浦長者他にも多田羅浜領主多田羅某に始まり、朝比奈義秀公や芦名某など、この様に必ず地名を姓にして名乗るのが鎌倉武士の習慣でしたが三崎を称する武士はいません。
平安時代の三浦家の水軍拠点を紹介すると・・・●怒田城・・・久里浜に広がっていた湾内に築かれた城で、現在も舟倉の地名が残る三浦半島南側の水軍拠点。
和田義盛公による築城。
三浦家本拠衣笠城に一番近い水軍拠点。
●走水神社・・・神話の時代からの港。
房総半島への最短距離。
倭建命も同地より房総半島富津に渡海した。
●鐙摺城・・・葉山町~逗子に股がる山上に築かれた城で、麓に港が有った。
石橋山合戦時に三浦義澄公は同地から水軍で源頼朝公の救援に出撃した。
●新井城・・・三浦半島南西の海に突き出したしろだが、南北に港に適した湾を持ち、戦国時代には船による兵糧搬入で日本最長の約四年間籠城に耐えた実績が有る。
●筌龍弁財天(明治期に本宮神社と合祀し海南神社とされる)・・・当時の門前町入舩地区は平安時代末期には既に港として機能していたが、藤原資盈公の頃より居館は有れど城は無い。
三崎城址の本瑞寺一帯には源頼朝公以来歴代将軍の別荘が在り築城が許された筈もない。
以上の様に、三崎城址は平安時代末期~鎌倉時代の三浦家の城ではありません。
群郭式は良いとしても丸馬出しが有る等、扇谷流三浦家にはオーパーツ過ぎる縄張りです。
仮に扇谷流佐原三浦家時代に要塞が有っても、陸伝いの三浦半島北側にしか仮想敵が居らず小規模かつ単純なものだったでしょうね。
三崎城址本丸跡付近に看板が立てられています。
この城は縄張りからも明らかに北条氏規公が城主だった時代、後北条流の築城であり、中世的な縄張りの三浦家の城ではありません。
小桜姫伝説で金を稼ぎたいカルトが、自分等の宣伝の為に無理矢理三浦家の関与を捏造しようとしますが三浦家による築城の事実は有りません。
戦国時代初期に三浦家を乗っ取った扇谷上杉家の三浦道寸公の跡継ぎ三浦義意公が建てた御寺が江戸時代に城址内に移転した為に、その経緯を知らない人間の妄言を生むようです。
鎌倉時代の三浦家は、各城主が在所を姓にして名乗りましたが、三崎を姓にする武将すらいませんでした。
この事実に関して具体例を挙げますと・・・●荒井(新井)城主、後に衣笠城主:平朝臣 三浦新介 荒(あらい)次郎 義澄●佐原城主:平朝臣 佐原義連●杉本城主:平朝臣 杉本義宗●岡崎城主:平朝臣 岡崎義実●和田領主:平朝臣 和田義盛 三浦長者他にも多田羅浜領主多田羅某に始まり、朝比奈義秀公や芦名某など、この様に必ず地名を姓にして名乗るのが鎌倉武士の習慣でしたが三崎を称する武士はいません。
平安時代の三浦家の水軍拠点を紹介すると・・・●怒田城・・・久里浜に広がっていた湾内に築かれた城で、現在も舟倉の地名が残る三浦半島南側の水軍拠点。
和田義盛公による築城。
三浦家本拠衣笠城に一番近い水軍拠点。
●走水神社・・・神話の時代からの港。
房総半島への最短距離。
倭建命も同地より房総半島富津に渡海した。
●鐙摺城・・・葉山町~逗子に股がる山上に築かれた城で、麓に港が有った。
石橋山合戦時に三浦義澄公は同地から水軍で源頼朝公の救援に出撃した。
●新井城・・・三浦半島南西の海に突き出したしろだが、南北に港に適した湾を持ち、戦国時代には船による兵糧搬入で日本最長の約四年間籠城に耐えた実績が有る。
●筌龍弁財天(明治期に本宮神社と合祀し海南神社とされる)・・・当時の門前町入舩地区は平安時代末期には既に港として機能していたが、藤原資盈公の頃より居館は有れど城は無い。
三崎城址の本瑞寺一帯には源頼朝公以来歴代将軍の別荘が在り築城が許された筈もない。
以上の様に、三崎城址は平安時代末期~鎌倉時代の三浦家の城ではありません。
群郭式は良いとしても丸馬出しが有る等、扇谷流三浦家にはオーパーツ過ぎる縄張りです。
仮に扇谷流佐原三浦家時代に要塞が有っても、陸伝いの三浦半島北側にしか仮想敵が居らず小規模かつ単純なものだったでしょうね。
市役所に三崎城跡の石碑が立てられています。
付近には三浦氏や後北条氏、里見氏が拠点とした三崎城がありました。
名前 |
三崎城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
046-882-1111 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.2 |
◆『三崎城跡』の解説板と石碑は、三浦市役所の東側、約80mの場所にあります。
①築城については不明な事が多いですが、1516年、相模三浦氏の居城であった三崎城、新井城の両城は、北条早雲によって落とされ、相模三浦氏は滅亡します。
②その後両城は、北条早雲により改築され、後北条氏が代々城主を務め、安房国里見氏との戦闘拠点となります。
③1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により、戦国大名としての後北条氏は滅亡します。
両城は開城・降伏し、その後廃城となります。
※相模三浦氏最後の当主【三浦道寸義同(どうすんよしあつ)】と【三浦荒次郎義意(あらじろうよしおき)】父子の墓と「新井城碑」は、油壺「胴網海岸」の近くにあります。
※「新井城址」の解説板は、荒井浜海岸へ繋がる遊歩道の途中にあります。