玉川八十八ヵ所霊場・武相不動尊二十八霊場・東海三十...
保元元年1156年に創建したと伝えられ歴史があります。
本堂は近代的な建物ですが、その他は伝統を感じさせ趣きがあります。
境内は緑豊かで穏やかで厳かな雰囲気が漂います。
近代建築の本堂と伝統的建築の他の建物との対比が面白い。
説明書きが随所に設置されており、親切なのは有り難い。
22/12/11 ウォーキング途中に立ち寄りました。
由緒ある寺院で勉強になりました↓真言宗智山派寺院の宝幢院は、大綱山と号し、鵜の木光明寺第3世行観(保元元年1156年寂)が創建したと伝えられ、門末50余ヶ寺を擁した檀林所でした。
天正19年(1591)には徳川家康から11石の朱印状を拝領しています。
玉川八十八ヶ所霊場結番、東海三十三観音霊場17番、武蔵不動尊22番です。
寺伝によれば、醍醐山光台院の行観の開基といわれ、行観は保元元年(1156)に寂しているから、平安末期の開創になる。
醍醐山地蔵院道教方の法流を継ぎ、末寺50余を有し、これらの子弟を教養する檀林所であった。
享禄5年(1532)小田原城主北条氏康は、寺領11石を寄進し、天正19年(1591)徳川家康の寄進をはじめ、歴代将軍の庇護をうけた。
しかし、安政6年(1859)の大暴風のため、諸堂倒壊し、さらに明治維新の変革により、昔日の盛観を失った。
大正7年(1918)に至り、本堂、庫裡、山門、鐘楼を建造したが、昭和20年(1945)の戦災により、山門、鐘楼を残して焼失し、昭和37年(1962)本堂、庫裡を再建した。
「新編武蔵風土記稿」には、行観は鵜の木光明寺第3世の住持であり、もと光明寺が真言宗であったが、浄土教となったため、近郷に真言宗の寺院を建立し、開山となったと記している。
境内はきれいに整備され、また本堂は現代的かつ落ち着いた感じで、とても気持ちよくお参りすることができました。
主人の実家のお墓です。
お盆なので、義父、義母の御魂を、お迎えに伺いました。
本日13日夕方、迎え火を炊いて、お迎えしました。
大綱山宝幢院。
真言宗智山派の寺院。
御本尊は阿弥陀如来。
この地域では珍しく鐘楼がある寺院。
山門と鐘楼は1918年に、本堂は戦後に建てられたそう。
平安期開創。
真言宗智山派の古刹。
かつては50の末寺を持つ大寺院だったとのこと。
やはり名残があり荘厳です。
観音霊場巡りで参拝致しました。
住宅街のお寺とは思えない程木々が多く、ほっと一息。
今年は暑いので癒されます。
散歩中にお寺があり、ちょっと立ち寄り。
玉川八十八ヶ所霊場や東海三十三観音霊場だったりする由緒あるところでした。
雰囲気あり、いいね。
武相二十八不動尊霊場で参拝させて頂きました。
(^^ゞ由緒あるいいお寺だと思います、
2018/2/10拝受 玉川八十八ヶ所霊場結願寺。
お願いすれば結願證を発行して下さいます。
1000円。
御住職の御手隙の時にしか書いて頂けないので土日の法要の混雑時には予め電話で問い合わせましょう。
郵送もして頂けます。
封筒(A4用紙が入る)と切手(120~140円切手)を持参すること。
東海観音霊場と武相不動霊場も兼務しています。
玉川霊場を結願して嬉しさ喜びと共に少なからず寂しさも感じてしまう。
さて、来週からは何処をお参りするかな?有難く御朱印(含む結願證)を頂きました!
夜には門前の看板が明るく光っています。
玉川八十八ケ所霊場札所第88番です。
また、東海三十三観音霊場第17番でもある。
平安末期の開創の古刹です。
新緑の頃に訪れましたが、広い境内は庭園のようにきれいに整ってました。
鐘楼と山門は昭和20年の戦災で焼け残った貴重な建物です。
梵鐘が国の重要美術品に指定されていて訪れる人も多いようです。
名前 |
寶幢院(宝幢院) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

玉川八十八ヵ所霊場・武相不動尊二十八霊場・東海三十三観音霊場の参拝でそれぞれ別の日にお伺いしました。
真言宗智山派のお寺で正式なお名前は大綱山寳幢院光明寺といい、御本尊は阿弥陀如来になります。
玉川霊場の御本尊は阿弥陀如来(脇侍は不動明王と愛染明王)で霊場第八十八番札所、武相霊場の御本尊は不動明王で霊場第二十二番札所、東海観音霊場の御本尊は十一面観世音菩薩で霊場第十七番札所になります、玉川八十八ヵ所霊場の結願寺になりますので霊場結願の証明がいただけます。
真言密教の法流を継いで末寺を五十余を有していたお寺で、これらの子弟を養成する檀林所(僧侶の学校)であったお寺です。
寺伝では❮寳幢院❯は平安時代の末期に僧「行観」により開山された、当初の❮光明寺❯は行基により開山され弘法大師空海が中興した真言宗の寺院であったが寛喜年間(1229年~1232年)になって浄土宗に転宗したため「行観」は弘法大師空海の寺が消滅することを惜しみ別に一寺❮寳幢院❯を設けて隠棲し第二世以降を真言宗の僧侶に譲ることとした、そういう経緯から❮光明寺❯と同じ院号・寺号❮寳幢院光明寺❯を持ち、当院は「寳幢院」をもう片方の転宗したお寺は❮光明寺❯を通称とすることになったという。
小田原城主北條氏綱公や徳川幕府初代将軍徳川家康公の寄進をはじめ、歴代将軍の庇護をうけましたが安政三年(1856)の大暴風雨のため諸堂が倒壊しました、さらに明治維新の変革(廃仏毀釈)により昔日の盛観を失っています。
昭和二十年(1945年)の太平洋戦争の戦火により山門、鐘楼を残して焼失、昭和三十七年(1962年)に再建しました、宝幢院は弘法大師留錫の地といわれているお寺です。