案内板には全て円墳と書かれていますが一基はその後の...
行った事無いなー何処なんだろ?って思ったら5月頃にタケノコ堀やってた所でした!凄く綺麗に整備されてて、山登るのは少し大変だけど少し前まで散歩コースにしてました。
古墳が3ヶ所あります。
冬にはルリビタキ、ジョウビタキが訪れます。
初夏にはオオルリ、キビタキが来ることも。
最小の鷹、ツミの繁殖地でもあります。
キツツキの仲間、アオゲラは通年見られます。
写真はここで撮影したキビタキです。
前方後円墳1基(1号墳)、円墳3基(2~4号墳)から構成される古墳群。
1号墳は、全長30mほどの前方後円墳で、埴輪を伴っており、6世紀後半から7世紀初頭に造られたと考えられている。
現状は、中世の井田城の影響で細長い形状をしている。
2号墳、3号墳は、ともに直径約18mほどの円墳。
現在、神庭緑地の中に保存されており、常時見学可能になっている。
神庭緑地内の豊かな緑に埋もれてます。
案内板がありませんが、3つ程ありました。
古墳裏手から見る景色が良かったな〜。
周りに緑が沢山あり良いところです。
カブトムシがたくさんとれます。
案内板には全て円墳と書かれていますが一基はその後の調査から前方後円墳で六世紀後半の築造とのこと。
両隣の円墳や近隣の古墳よりやや古く、それらとの関係も気になります。
小さな古墳群ですが、周りに高い山がないので見晴らしはいいです。
城址としての遺構は乏しいが、要害性在る高い断崖の上が城域に成っている。
同地は古墳などもある古代の遺跡でもある。
教育委員会の説明では古墳とは書いて有るが、城郭ファンには土塁と見張り台の跡にしか見えない。
竹林は大堀切でそこから竪堀状に下に下っている地形に成っている。
ここの説明から発掘調査には城郭専門家が加わっていなかったと推測出来る。
空堀等の説明も無い。
同地は小田原所領役帳には・・・「拾(10)貫文 井田 沼上」・・・と記録されている。
つまり姓が沼上で名は不記載の人物が治めたらしい。
しかし新編武蔵風土記稿を読むと「中田加賀守の住した場所だった」可能性も指摘されている。
中田加賀守の所領も又、小田原所領役帳に記載が有り所領は・・・「拾壱(11)貫文五百五十文 小机 川島 三貫八百七十文 小机 矢上之内 以上拾五貫四百弐拾文」・・・と記載されている。
つまり小机衆だった様だが、この資料は永禄二年(1559年)以後に編纂された物で、その資料の前後の期間の知行地に関しては不明。
少なくとも1559年以後の数年間は中田加賀守は住んでいなかった。
しかし御当地は吉良家の所領と接している事実が有る。
そうなると時代背景的に1559年頃の当主の吉良頼康公より以前の吉良成高公の頃の吉良家の版図と、吉良家が吉良氏朝公の代に世田谷城に拠点を移して世田谷衆が編成されているらしい事を考えると、小田原所領役帳より以前か以後に中田加賀守が当地を治めた可能性は高い。
若しくは沼上が中田加賀守の与力に編入され更に中田加賀守自身も吉良氏朝公の与力に再編されている可能性も高い。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が有る・・・「此所をいりの上と云。
五町四方ばかりの間にかたち残れり。
(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。
されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし」・・・とどのつまり、江戸時代に中田加賀守と同じ旧北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信が江戸幕府官営の昌平坂学問所頭取として編纂した新編武蔵風土記稿編纂時にも「中田加賀守が住んでいたらしい」と口伝は周辺の村民に伝わっていたけれど遺物が無く何の確証も無かったらしい。
少なくとも北条家の最期には中田加賀守は本領の矢上(慶應大学日吉キャンパスを含む周辺一帯)に城を築いていた事が判っている。
恐らく、井田を領した沼上と言う姓の武将を含めて周辺一帯の武将の寄親(よりおや=上司)として中田隊みたいな部隊が編成されていたので、江戸時代の伝承が残ったのだろう。
そもそも所領役帳で中田加賀守は”御家中衆”つまり北条氏康公直属部隊に編入されているので、間宮士信サンの間宮家に伝わっている認識は所領役帳以前か以後の話である証明にも成る。
因みに、横浜市港南区野庭に移住し北条家臣化した千葉県の臼井城主の千葉家支族の臼居家mには中田加賀守の姫が嫁いでいる。
つまり中田加賀守家は少なくとも元小大名クラスと対等の家格を有していた証明にも成るんだな。
尚、新編武蔵風土記稿の解説に振った( )の数字で区切った内容を解説すると・・・(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
→実際の所は誰が住んでたかワカンねぇ~よ(※江戸時代時点)。
(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
→ここの地下からツボの形したのとか色々な陶器が見つかるんだよね。
※実は井田城址は神庭緑地と言って古墳時代の史跡でもある。
間宮士信さんが陶器と言ってるのは江戸時代には井田城址の古墳時代の墳墓群や住居跡が畑地化されていて古墳時代の須恵器の土器の破片や土偶を農民が良く見つていたのを報告として受けて記録したんだろう。
(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。
されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたしココは北条家臣の中田加賀守の居た所だったかもだけど、伝える処(根拠)も無いから、ちょっとしかワカンね(笑)。
・・・こんな解説をしてらっしゃいます。
あと、小生の推測では中田家は代々の当主が加賀守を名乗った可能性も有るので、中田加賀守が一人だとは限りません。
そして、中田加賀守や小机衆時代には吏僚として活躍している事も判明しているので、吉良家の北条家臣化後の部隊再編に伴って世田谷衆とも言うべき吉良家与力に再編された可能性も高い訳です。
そして、その頃の居城は慶応大学日吉キャンパスだった訳です。
井田城址の前を流れる矢上川の下流に矢上城が在った訳だ。
余談ですが日吉キャンパスは昭和にも重要な軍事拠点化して、海軍の参謀本部として大戦末期に地下基地が築かれており、その空気孔が石原裕次郎さんの映画にも映り込んでいたりします(笑)。
とどのつまり、中田さんが統括した沼上さんの所領だったのが井田城周辺って小生の説が一番自然な訳です。
吉良氏朝公の時代の話に繋がっていくか、北条氏綱公の頃の古い話って事でしょう。
名前 |
井田城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
044-200-3305 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
緑が濃く、癒されますね‼️