通常ならば十中八九見落とす❌当方も今まで全く気が付...
山手迎賓館の敷地の角にひっそりと佇んでいる為、通常ならば十中八九見落とす❌当方も今まで全く気が付きませんでした❌
現在は看板のみ。
-----【機械製氷発祥の地】開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社がいくつも作られました。
ホテルのレストランやアイスクリームサロンで氷が供されたという記録が残っています。
1879(明治12)年には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」がこの地に設立され、その後オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの翌年には再建し、1999(平成11)年12月31日まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として、再建当時の姿のままで稼働していました。
開港後まもなく、横浜にも氷が輸入されるようになった。
当初、ボストンから輸入されていた「ボストン氷」と呼ばれるものは、大航海を経て半年かかって運ばれてくるので、とても高価なものとされていた。
そこで、各地で国産化を試みたのが中川 嘉兵衛(なかがわ かへえ)である。
しかし、各地で氷の切り出しを試みるが失敗し、その後、函館・五稜郭の外堀で作られた「函館氷」の商品化に成功する。
この「函館氷」も横浜に輸送されていたが、それは開港場という函館の特質、つまり頻繁な外国船(イギリスやアメリカの外国商船)の出入という海運の利便さが大きく活かされたものであった。
日本の機械製氷の歴史は、高熱で病床に臥している福沢諭吉のために少量の氷を製造したことに始まる。
記録にある最も古い製氷工場は、1879年(明治12年)、米国人アルバート・ウォートルスが日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」を設立。
2年後の1881年(明治14年)、オランダ人 ストルネブリンクが競売で落札し、名称も「横浜アイス・ワークス」に改められた。
その後、経営母体を変えつつも100年以上にわたって運営された。
当初の工場は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したが、翌年再建された工場は、1999年(平成11年)まで神奈川日冷株式会社山手工場として稼働していた。
迎賓館の横の植え込みの隣に、説明板だけがある。
横浜に多くある『日本最初の○○』の碑のひとつ。
元町迎賓館前に説明版があります。
ヨコハマ始めて物語。
看板のみです。
説明板しかない。
今は看板のみ残るだけです。
開港後まもなく、横浜にも氷が輸入されるようになった。
当初、ボストンから輸入されていた「ボストン氷」と呼ばれるものは、大航海を経て半年かかって運ばれてくるので、とても高価なものとされていた。
そこで、各地で国産化を試みたのが中川 嘉兵衛(かへえ)である。
しかし、各地で氷の切り出しを試みるが失敗し、その後、函館・五稜郭の外堀で作られた「函館氷」の商品化に成功する。
この「函館氷」も横浜に輸送されていたが、それは開港場という函館の特質、つまり頻繁な外国船の出入という海運の利便さが大きく活かされたものであった。
日本の機械製氷の歴史は、高熱で病床に臥している福沢諭吉のために少量の氷を製造したことに始まる。
記録にある最も古い製氷工場は、明治12年(1879)に英国人アルバート・ウォーターズが設立したジャパン・アイス・カンパニーである。
この工場の経営権は、2年後にオランダ人ストルネブリンクに移り、名称も「横浜アイス・ワークス」と変わったが、その後も長く経営された。
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し、 平成11年(1999)12月31日まで、 株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として、 再建当時の姿のままで稼働していたが、現在は解体され残っていない。
名前 |
機械製氷発祥の地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.0 |
この近辺に多くある「発祥の地」の1つ。
ニチレイの子会社だった旧神奈川日冷の山手工場があった場所である。
という経緯があることから、ニチレイが2004年に設置し今に至っている。
左の木が生い茂った結果、説明の一部が隠れてしまっていた。