廃墟瓦礫も史跡とは、さすが横浜ですね!
開通合名会社の煉瓦遺構 / / .
神奈川県庁と神奈川県庁新庁舎の間を通るみなと大通り沿いにあります。
ここに設置されている煉瓦遺跡は、ぱっと見ただの崩れたレンガの壁にしか見えませんが、これもちゃんとした横浜の歴史的名所の1つです。
遺構前に設置されている説明文を読むと、「この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。
建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、曽於の一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。
平成26年(2014年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。
」とありました。
現存しているのは補強された煉瓦の壁のみですが、案内板と当時の写真を見ると、明治時代の横浜の様子が良く伝わって、良く残っていてくれたもんだと親しみがわいてきます。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であるとされています。
建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。
平成26年(2014年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。
開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。
大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10年(1877年)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891年)「開通合名会社」に改名。
当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。
この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられる。
写真は明治38年(1905年)頃のものと推定されている。
横浜のこの界隈には、このような歴史的なものが沢山ある。
関東大震災で倒壊してしまった建物の一部だが、これだけでも明治~大正の一幕を語ってくれているような気がする。
今は駐車場の壁を兼務しているようなので、利用者は本当に気をつけて欲しい。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であるとされています。
建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。
平成26年(2014年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。
開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。
大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10年(1877年)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891年)「開通合名会社」に改名。
当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。
この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられる。
写真は明治38年(1905年)頃のものと推定されている。
建物を取り壊すときに、関東大震災で被災したと判断される建物の柱や壁が出てきた。
関東大震災の遺構として保存されています。
県庁と横浜開港記念館の目の前ですが、少し気が付きにくい感じがします。
明治時代の日本人商社の建物の一部が残っています。
関東大震災で倒壊したそうです。
町中に平然と有りますが、当時の場所にそのまま残されている貴重な遺構だと思います。
名前 |
開通合名会社の煉瓦遺構 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
廃墟瓦礫も史跡とは、さすが横浜ですね!