明治3(1870)年に関内(かんない)居留地に陶管...
明治3(1870)年に関内(かんない)居留地に陶管の下水道を埋設した。
これが本邦初の近代的下水道であった。
明治14(1881)年に煉瓦造りの下水管に敷設替えをしていった。
昭和56(1981)年に発掘された卵形下水管を敷地角に展示している。
土木事務所の敷地内、公衆電話に隠れるように置いてあります。
近寄ればちゃんと碑も読めます。
関内地区に埋め立てられていた下水道の一部。
急増した管内地区の人口を支える下水設備が必要になったため,三田善太郎技師によって,従来の下水管を改良する工事を監督し,いわゆる「卵形管型」と呼ばれる下水管が敷設された。
工事は,明治十四年(1881年)から開始され,足掛六年,明治二十年(1887年)に完成したとされる。
なお,三田の設計した下水管は,ロンドンの下水システムの完成に大きく貢献したイギリス人技師,ジョン・フィリップの考案した卵形管型の下水管を模したものと考えられているそうだ。
当地以外にも,これと同型の下水管がかなりの数,発掘されている様である。
横浜市中土木事務所には卵形下水管と共に「横浜の下水道の始まり」と書かれた石碑が建っている。
横浜が開港され、外国人居留地として開発されてから下水道の近代化が始まる。
煉瓦造りの下水管を今でも一部使っているところがあることに驚きです。
赤レンガ倉庫や明治時代の煉瓦造りの建物と風合が似ている煉瓦なので下水用というわけではなく、当時の建築資材として煉瓦の凡庸性が高かった様子が伺えます。
横浜が開港され、横浜の関内地区は埋め立てられ、外国人居留地として開発されていった。
当時、外国でも日本でもコレラが流行していたため、 横浜居留地の外国人は排水と下水道の整備を希望していました。
当時横浜の下水は、道路脇の掘割が利用されていたが、都市化が進むにつれ居留地の衛生管理が重要になり下水道の整備が求められるようになった。
当時、横浜の主要道路には、掘割が布設され、下水道としての役割を担っていました。
しかし、構造的にも粗悪なもので、各所でつまり、溢れ出してしまうという状況で、 地中に埋めた管に汚水を流すという欧米の下水道とは比較にならないものでした。
1864年(元治元年)11月に各国領事と幕府との間で交わされた「横浜居留地覚書」 に基づいて、居留地の下水道整備を進めたのは、明治政府最初のお雇い外国人となった、 英国人ブラントン(Richard Henry Brunton)でした。
横浜居留地の下水道整備計画は1869年(明治2年)に着手され、1871年(明治4年) に完成しました。
この下水道は瓦製陶管による下水管を埋設するものでした。
名前 |
横浜の下水道の始まり碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.4 |
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関内から桜木町のエリアで見かける機会が多い遺物。
それだけ下水道の整備が進んでいた証である。
説明には現在も使われている。
とあるが、2024年でもそうなのか少し疑ってしまった。