初代歌川広重の新町橋が天王町駅前に再現されているの...
相鉄線、天王町駅前に旧帷子橋の跡地があります。
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋 は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ケ谷宿を代表する風景として知られていました。
昭和31年(1956)に帷子川の河川改修工事が行われ、それまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。
天王町駅前公園の一部となっており、安藤広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」の風景はに帷子橋が描かれています。
広重の「東海道五十三次」で「保土ヶ谷 新町橋」として描かれた橋。
古東海道にあった「古町橋」に対して、江戸時代前期に整備された東海道に架けられた橋が「新町橋」、つまり帷子橋です。
江戸時代の帷子橋は今のものと位置が違っていて、現在の天王町駅前公園にありました。
江戸時代後期の「新編武蔵風土記稿」に「帷子川二架ス。
板橋ニテ高欄ツキナリ」と記されています。
公園内の跡地には平地に板を敷いて申し訳程度に小さな欄干などを復元していますが、いかにも予算をケチったという感じです。
2022/12/4天王町駅前公園の中の「帷子橋(新町橋)跡」。
よく見もぜず何度か通り過ぎていたが、直前に「旧古町橋跡」の解説を見て、昔の川筋の延長線に、此処の「橋の跡」が有るのを思い出した。
当時の川筋、はとんでもなく曲がっている。
公園内にはいろいろと解説板が有り、大変参考になる。
ただ、見ていて違和感を覚えた。
川筋の図が南北逆だ。
たまに、多分親切心で、こういうのを見るが、戸惑うのでそういう表示の仕方は不要。
また、白い石碑が何本か有るが、彫っただけでは字が見えない。
親切心が有るなら、墨を入れて見易くするべきだ。
「歴史の道」の説明板に中に。
相州道の表示が有るが、これは正しいのだろうか。
相州道の定義とルートは、多く議論されている部分だ。
保寿堂のロールカステラが食べてみたくなり訪問してから、東海道五十三次、初代歌川広重の新町橋が天王町駅前に再現されているのが分り訪問~👣。
訪問すると、恐らく新町(帷子)橋と帷子川だと思われるオブジェを発見👀。
絵と同じ角度からパシャリ🤳して後に(^^)。
保土ヶ谷宿があったので周辺に案内板あります。
広重の東海道五十三次の保土ケ谷宿の橋の名残りで相鉄天王町駅前の広場にモニュメントとして残っています。
今は川が付け替えられ、橋も残されていませんが、公園内に橋を模したモニュメントが設置されています。
歌川広重の保土ヶ谷宿に描かれている帷子川に架けられた新町橋跡。
この橋を渡ると保土ヶ谷の宿。
1964年の東京オリンピックの頃まで帷子橋(かたびらばし)が架かっていてたとの事。
橋跡がしっかり残っている史跡です。
案内板もどことなく豪華ですね。
相鉄本線天王町駅近くにある公園です。
公園といっても側に有る帷子公園などと比べると遊具はなく、ベンチがあり住民の憩いの場的な場所ですね。
今の帷子川の位置とは違いますが、歴史をかんじますよ。
帷子川といえは、その昔、アザラシのタマちゃんが来たところです。
広重の東海道五十三次の保土谷宿で描かれています。
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋。
広重の「東海道五十三次 保土ヶ谷」で描かれていて、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景だった。
1964年(昭和39年)河川改修により川の流れが付け替えられ、帷子橋は撤去。
帷子橋の跡地は、現在天王町駅前公園の一部になっている。
(説明文参照)
名前 |
帷子橋(新町橋)跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
旧東海道保土ヶ谷宿手前の 帷子(かたびら)橋跡相鉄線天王町駅前公園の中にあります、こういうものは大事に後世に伝えたいですね。