昔私が通学した伊勢原中学校校庭の南側の何処かに安置...
この地蔵菩薩立像があった場所(現在の桜台小学校)は、昔私が通学した伊勢原中学校校庭の南側の何処かに安置されていたようだ。
当時の記憶は薄らいだが伊勢原駅から真っ直ぐ平塚方面に伸びる唯一のバス道(神奈川中央バスが通れる道)が学校の西側を走っており、この周辺は昔から段丘の為か、急勾配の坂であった。
当時、自転車で大句地区から通う同級生が赤坂(あかさか)と呼んでいた記憶がある。
なお、この赤坂の下部(南側一帯)が湿地帯であった記憶は余り無いが、農業用水が桜台小学校の東側に今もって整備されている事実は見ることが出来る。
地蔵尊が安置された場所が、田村から「わくわく広場伊勢原店」近くの三叉路(不動明王・道標あり)前を通る大山道「田村通り大山道」に係わり、熱心な大山講中(こうちゅう)の何処かに納めたく運搬したが何らかの理由で「舟で運搬したが運びきれずに打ち置かれた」説も考えられる。
お堂内の大きな地蔵菩薩立像が「岩船地蔵尊」左側が「子育て地蔵尊」であり勧請もとの高勝寺を忠実に再現しています。
由緒によれば、栃木県下都賀郡岩舟町静にある「岩船山高勝寺」からご本尊を勧請したのが「岩船地蔵尊」と書かれてある。
この高勝寺は、弘誓坊明願が宝亀2年に開山した。
この寺院は全国的に御詠歌で詠われる「帰命頂礼岩船の…」に始まる岩船地蔵和讃(わさん)の舞台であり、「生身の地蔵尊」を本尊とする天台宗の末寺である。
死者を暖かく懐に抱いてくれると同時に、子授け、子育て、安産の地蔵尊である。
岩船山は、死者の霊の集まる処、霊魂の故郷ともいわれている。
当時から地蔵信仰の盛んな土地柄である。
霊験あらたかな、この地蔵尊は古来より子授・安産の地蔵といわれています。
徳川三代将軍家光の側室、お楽の方は岩船地蔵を信仰していました。
江戸城に入る時、岩船から地蔵様をむかえて場内に祀り、子孫繁栄と武運長久を祈ました。
その御利益を得て生まれたのが四代将軍家綱といわれています。
岩船(いわふね)の呼称は、相模の国にも各所ありますが、鎌倉の扇ガ谷(おおぎがやつ)と山ノ内(やまのうち)を結ぶ亀ヶ谷坂切通(鎌倉七口)の急坂を下った先、右に行けば海蔵寺の角に岩船地蔵尊のお堂がある。
これは木像地蔵菩薩の体内より「頼朝の娘大姫の守本尊」の書置きが見つかっています。
昔から岩船地蔵は子宝祈願、水子供養の信者が多かったことが偲ばれます。
名前 |
岩船地蔵尊 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
小学校の向かいにあります。