三浦道寸が北条早雲の攻撃に17年耐えたという城は現...
岡崎城は伊勢氏の相模侵攻の一つの城です。
三浦方の正木時義が籠城しますが正木氏は伊勢氏と仲が良かったので、即刻開城します。
正木氏は誼のある安房へ行き後の安房里見氏を多いに発展させる人物になります。
その後岡崎城は、伊勢氏のものとなり、三浦氏討伐後は、伊勢氏が城持ちとなりました。
三浦道寸が北条早雲の攻撃に17年耐えたという城は現在無量寺境内となり荒れ放題です。
しかし周囲を一回りしてみるとその大きさに驚きます。
城址といってもお寺があるだけ。
境内に古い墓石を集めた無縁仏の供養塔があるので古いお寺らしいことは分かる。
見晴らしがいいので、城を築いたんだろうと思う。
本堂の脇や裏側に見える曲輪や空堀の痕跡に往時がうかがえます。
現在はお寺さんで、裏手側に回ると、曲輪跡を見られます。
丘なので、平塚市街までみえます。
寺院と墓地になってしまっているが、石垣に城の雰囲気は感じられます。
遺構は、わかりにくいですが。
土塁など、残っています(✪▽✪)曲輪はお家や、田んぼ、畑になってます!!
城主、三浦道寸(どうすん)。
北条早雲が攻める。
舌状台地上の曲輪の遺構は、見応えがあります。
城跡遺跡として良く残って居ます。
自転車で神奈川中世城郭図鑑を持って岡崎城跡を訪れました。
主郭は無量寺になっています。
南に伸びる尾根に沿った曲輪跡もはっきり確認できます。
寺の裏側の曲輪は畑となっています。
さらに堀を超えて尾根を藪こぎをすると平らな曲輪跡があります。
お墓まいり用にお線香が無人販売されています!ライターと火種用にロウソクもあって助かります。
勇将岡崎四郎義実(「悪四郎」とも呼ばれた猛勇の坂東武者)によって築城され、軍事・統治両面を兼ねた名城でした。
鎌倉初期に活躍した、岡崎四郎義実の墓は、無量寺入口を出て左に回りこむと掲示板(380m)がある。
岡崎氏は、鎌倉幕府に重きをなした三浦四棟領の一つに数えられた名門で、桓武平氏の出と言われています。
三浦一族の持城として要害を誇ったこの城も、北条早雲の猛攻により落城し、その本丸跡に建てられたのが無量寺です。
また、付近には乙女の悲しい田植え伝説のある大句の五反田と、乙女地蔵もあります。
伊勢原駅南口2番乗場 平塚駅北口行 城所入口下車(170円)参考:伊勢原観光ガイド。
平安時代末期~戦国時代初期にかけての三浦家の大城郭。
残念ながら神奈川県教育委員会が神奈川県下有数の規模を誇る岡崎城城郭群の保護を怠った為に、城址の大部分が消え失せた。
しかしながら本丸跡の無量寺の地形が在り、その背後にはかなり良好な状態で三連の曲輪と空堀と切岸が現存している。
築城者の岡崎(三浦)義実公の墓所へ向かう農道は喰い違い虎口の形状を留めている。
平安時代末期~戦国時代初期にかけての三浦家の大城郭。
残念ながら神奈川県教育委員会が神奈川県下有数の規模を誇る岡崎城城郭群の保護を怠った為に、城址の大部分が消え失せた。
しかしながら本丸跡の無量寺の地形が在り、その背後にはかなり良好な状態で三連の曲輪と空堀と切岸が現存している。
築城者の岡崎(三浦)義実公の墓所へ向かう農道は喰い違い虎口の形状を留めている。
名前 |
岡崎城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/kankou_guide/docs/2014101000119/ |
評価 |
3.4 |
鎌倉時代の岡崎四郎義実の居城は岡崎神社を中心とした範囲が館跡でした。
戦国以降に無量寺となったようです。
無量寺近くに四郎義実のお墓が有ります。
土塁や堀跡も少なからず残ってます。