歴史的な場所なのかもしれないけど今は道路建設のため...
伊勢原市文化財サイト、ホー厶ページより東西1600メートル南北700メートル周囲の堀幅は最大100メートルもある広大な館跡。
明治以降上粕屋に残る地名、立原タテハラ的場マトバ馬防口マセグチ広大なる産業能率大学の敷地、新東名高速インターチェンジが予定され、もう既にあらかた消滅寸前で新東名の開通により、車関係の建物、店舗など出来るともっと悲惨なる状態になると思う。
東京稲城の大丸城しかり、鎌倉大船の玉縄城しかり説明板一枚、いつか見た景色、デジャヴな時間、本当に人間って学習能力がないですねぇ〜、黒岩知事さんあなたのことですよ〜。
この景色、今見ておかないと、跡形もなくなると思う、そして地名だけが残る。
そして2〜3年後にこの上杉館を訪れた城跡マニアにはこの景色はおそらく無かろうと思う。
当方滅亡(自分亡き後上杉は滅ぶと言う意味)そしてこの場所を粗末に扱うと日本人も滅ぶと言うメッセージかもしれない。
高速道路開通し利便性ばかり追求して、日本人として何かを忘れ、何かを失くしてしまっている気がする、そんな事を思うのは私だけだろうか。
,先日BSにて、いたすけ古墳を守った話は感涙でした。
開発業者のかけた橋はそのまま残して人類の愚かな行為としてずっとずっと残すそうです。
コンクリートの橋の上で、二匹の狸がじっーとこちらを見てました。
とても印象深いシーンでした。
人間の愚かな行為を嘲笑うように。
2020年2月21日 自転車でやってきました。
室町時代の鎌倉公方、関東管領上杉氏、太田道灌、享徳の乱についての本を読んでやってきました。
産能大の隣の空地です。
新東名の工事にかかってしまうのか、盛んに発掘作業をしています。
歴史的な場所なのかもしれないけど今は道路建設のためにいわゆる工事現場の空き地化してしまっています。
小学校の頃、社会の読み物で読んだ記憶がありますが道灌さんのお墓よりマイナーです。
素人目にはただの空地にしか見えない。
関東管領の山内上杉氏と同族扇谷上杉氏の本拠。
先代当主上杉政真が古河公方との戦いに敗れて戦死。
家督は重臣である太田道灌に推挙されて叔父である定正が継ぐ。
山内上杉家重臣が起こした長尾影春の乱(1476)で太田道灌の活躍により扇谷・扇谷上杉氏は勝利する。
太田道灌の活躍に嫉妬した定正は糟屋館で暗殺。
道灌の有名な『当方滅亡』を遺した。
関東管領も勤めた扇谷上杉家の戦国時代初期の拠点だった大城郭跡。
扇谷上杉家は鎌倉公方足利持氏公に忠節を尽くした上杉氏定公の時代は藤沢の大庭城を本拠にしていた。
上杉定正公の頃に糟屋舘が本拠に成り、城下の洞昌院で家宰の太田道灌が相模守護代として執務を執った。
糟屋館の台地上の土塁等は昭和の農地改良時に削平され消滅したが、台地の外周取り巻く崖面には遺構が現在も残る。
外堀から立原(館原)に上がる犬走の地形や土塁、帯曲輪が崖地に残るが教育委員会は未調査。
黒岩神奈川県知事の在任中に県道バイパス建設が進み外堀は道路化されたが、その直ぐ横の崖地の城址は未調査のまま。
城址発掘調査は2015年に行ったが、肝腎の城址残存部である舌状台地の壁面は未調査のまま。
2015年の調査としては昭和初期に既に農地改良の為に削平された立原や大門や湯殿入辺りの土地しか行われなかったが、当然ながら遺構が出る訳も無い。
更に関東における平山城の先駆けである糟屋館は伝承から巨大な規模を誇っていたのが伝わっているにも関わらず、発掘調査チームには一人も城郭専門家を入れていなかった。
このまま建設が進むと未調査のまま、残る壁面の帯曲輪群や武者走りや一部の土塁も掘削されてコンクリート擁壁に変えられてしまう懸念がある。
・・・2018年1月書く。
名前 |
扇谷上杉家糟屋館 |
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ジャンル |
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電話番号 |
045-210-8355 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/docs/2013060300308/ |
評価 |
2.9 |
産業能率大学はこの館の跡に建つことを記した案内がある。