盆すぎていたのですいてました。
北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、関東に徳川氏が入ったとき西えの入口となる小田原を委されていた大久保氏が、改易され自刃させられたが、その人々が眠るこの場所に立って往時を偲び、とても感慨深かった。
大久保家の菩提寺ということで忠世や忠隣の子孫の墓があると聞いて来ましたが、供養塔が5つ6つ並んでいるというもので、お骨は無いようです。
権力者に罰せられた人たちですから仕方ないですか。
特に本堂や境内のようなものはなく、お墓を管理しているお寺のように見えます。
名前 |
大久寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0465-24-0830 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
『新三河物語』紀行~家康と大久保一族~観光地化されていないので、ひっそりと初期小田原大久保一族の石塔群が佇んでます😌⭐️小田原藩主/大久保家菩提寺🪦・1590年、家康の関東移封に伴い遠江二俣城から忠臣/大久保忠世が小田原城45000石で入封、翌年1591年に大久保家の菩提寺として「大久寺」を開基✨・1614年、小田原2代藩主/大久保忠隣、幕府内政争に敗れ改易、井伊藩/彦根城下龍潭寺に配流幽閉し生涯を終えた、1628年75歳死去🥺・1686年、大久保忠隣の孫/大久保忠朝(忠隣の三男/教隆の子、本家/忠職の養子となる)が、唐津藩主⇒佐倉藩主⇒小田原藩主に10万3000石で復帰を果たした✨以後、幕末~明治初期まで小田原藩主/大久保家10代が続く🤔⭐️境内に佇む大久保家の石塔⭐️・大久保忠常…忠隣嫡男、1611年死去・大久保忠隣…小田原2代藩主、1614年失脚・大久保忠世…小田原大久保家/藩祖・大久保忠良…忠勝五男・大久保忠勝…忠俊嫡男・大久保忠俊…常源、三河一向一揆頃の上和田大久保家当主・車…大通りから参道へ進入可能、本堂前に駐車スペース4~5台あり🚙