何かとご利益のある場所です。
鎌倉は経済難と聞くが、こういう歴史建造物などをもっと大切にするべきだし、もっと整わせて本格的に観光に力を入れるべき。
ちなみにポケストップです!
1526年(大永6年)、北条氏と里見氏との合戦で戦死した北条方の人々35名を葬ったとされる塚で、代表的な家臣であった甘糟氏に因み以前は甘糟塚と呼ばれていたそうです。
2016/05/07に参拝しました。
大船駅北口前に東から西に柏尾川が流れているが、柏尾川は下流で境川に合流する。
この柏尾川と境川に挟まれた丘陵(標高60m)は、北条早雲が三浦義国と三浦一族を三浦半島に封じ込めるため永正九年(1512)九月、玉縄城「甘縄城・鎌倉市城廻、現在の清泉女学院」を築いた。
三浦半島の中で勢力を持っていた三浦一族は、早雲のこの一城で巾着袋の紐を締められた形になった。
こうして早雲は、三浦半島を確保、同時に東相模、南武蔵をおさえ、総州の里見の動きを抑制する北条水軍の拠点をつくって行った。
大永六年(1526)北条氏綱の弟・氏時が守る玉縄城を里見義豊が攻めた、義豊は鎌倉を占領して柏尾川まで攻めてきた。
この時城から出て戦った氏時らは35名が討死した。
義豊はひとまず退却したが、この時互いに取った首を交換し河原付近に弔った。
この場所が「玉縄首塚」「甘縄塚」「甘糟塚」で、大きな楠の木が日射しを和らげ傍らの六地蔵が守り下さっています。
2016/05/07に参拝しました。
大船駅北口前に東から西に柏尾川が流れているが、柏尾川は下流で境川に合流する。
この柏尾川と境川に挟まれた丘陵(標高60m)は、北条早雲が三浦義国と三浦一族を三浦半島に封じ込めるため永正九年(1512)九月、玉縄城「甘縄城・鎌倉市城廻、現在の清泉女学院」を築いた。
三浦半島の中で勢力を持っていた三浦一族は、早雲のこの一城で巾着袋の紐を締められた形になった。
こうして早雲は、三浦半島を確保、同時に東相模、南武蔵をおさえ、総州の里見の動きを抑制する北条水軍の拠点をつくって行った。
大永六年(1526)北条氏綱の弟・氏時が守る玉縄城を里見義豊が攻めた、義豊は鎌倉を占領して柏尾川まで攻めてきた。
この時城から出て戦った氏時らは35名が討死した。
義豊はひとまず退却したが、この時互いに取った首を交換し河原付近に弔った。
この場所が「玉縄首塚」「甘縄塚」「甘糟塚」で、大きな楠の木が日射しを和らげ傍らの六地蔵が守り下さっています。
名前 |
玉縄首塚 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0467-61-3884 |
住所 |
|
関連サイト |
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/meisho/04tamanawakubiduka.html |
評価 |
3.5 |
県道402号から脇道に入ってすぐの所にある。
北条vs里見の合戦時にお互いが取り合った首を交換し、弔った塚。
お地蔵さまが6体あり、その後ろに馬頭観音様も控えている。
2022年に訪れた時は、時節柄お地蔵さんは皆マスクを着けていた。