鎌倉を目指し関東平野を南下。
元弘3年(1333)、後醍醐天皇の幕府追討の命を受けた新田義貞は、鎌倉を目指し関東平野を南下。
頼朝が選んだ鎌倉は、海と山に囲まれた要害の地で、7ヵ所の切通しを守れば鉄壁の要塞でした。
5月19日、鎌倉へと攻め寄せる新田義貞軍は極楽寺、化粧坂、山ノ内の三方から攻撃するも、鎌倉の固い守りを崩す事ができませんでした。
極楽寺方面の新田勢総大将は大館宗氏、対する鎌倉方は北条貞直。
戦いの序盤、新田勢は鎌倉勢を押し込みますが、貞直の家臣、本間山城左衛門が猛反撃。
討ち取られた大館宗氏と11人の部下の遺体はここに埋められ、十一面観音の像を建てて鎮魂したと言われています。
十一人塚の石碑の奥にも墓石がありました。
昭和34年秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士ものと見られる多数の人骨が発見されたそうです。
その一部が、地域の人によって埋葬されたとのことです。
新田義貞の鎌倉攻めというと、稲村ヶ崎ばかり注目してしまいますが、極楽寺切通しの戦いでも、多くの方が亡くなったのですね。
極楽寺でも、多くの伽藍が焼失したそうです。
歴史はあまり得意じゃないほうですが、はじめて訪れ説明も分かりやすく書かれてあるのが印象的で改めて鎌倉時代の歴史に触れたような気がしました。
石碑には「大館」と彫られてるが「大舘」ではないかな?おおだち。
2021年1月22日自転車で大仏坂切通しに向かう前に寄りました。
新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉を攻めた時、11人の武将たちが勇敢に戦い討死した。
この11人を弔った所です。
新田義貞の鎌倉攻めの際、この地で討ち死にした新田方の武将大館宗氏ら11人を葬ったと伝わる場所。
現在、石碑や解説板などがあります。
十一人塚です。
小さいスポット!
48.十一人塚アクセス:江ノ電「稲村ケ崎駅」下車、徒歩3分・元弘 3年(1333年)5月18日:新田勢は、大軍を三隊に分け、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂にむかって、鎌倉を攻撃した。
極楽寺坂においても激戦となり、一計を案じた新田 大舘宗氏は、 ・同年5月18日の夜:手兵300騎を引き分けた大舘宗氏は、秘かに稲村ガ先から干潮によってやや広くなった波打際を、猛進した。
しかし、待ち受けていた北条勢によって、大館宗氏の主従11名は稲瀬川のほとりで北条軍の攻撃を受けて 全員討ち死にした。
生き残った者は内側から霊山に逃げ登った。
ちなみに、やがて十一面観音堂が御霊神社の参道に面したところに建てられた。
江戸時代、宗氏の子孫と称する人物が現われ、十一面観音堂の跡地を霊山の外に移した。
それが現在の「十一人塚」です。
~「元弘の変」から新田義貞の挙兵を経て、鎌倉幕府の滅亡までの流れ~ ・元弘元年(1331年)5月:「元弘の変」が起こる。
後醍醐天皇は討幕を図ったが露見。
・元弘 3年(1333年)2月:後醍醐天皇の軍を討つため、足利尊氏・名越流北条高家両将が、大軍を率いて上洛した。
軍勢が京都に到着する前に、京都の六波羅探題から急報が相次いだ。
さらに大軍を増派せよという内容であった。
意を決した幕府首脳部は、10万の兵を増派することとした。
「五日間のうちに、六万貫の軍資金」宛が課されたのが上野国新田荘であった。
しかし本領主系の新田義貞にとっては、不満であった。
先祖の旧領で徴税されているのを見ていられなくなり、思わず幕府派遣の徴税史を叩き斬ってしまったのである。
明白な謀叛であった。
翌日、幕府は、わずかに新田義貞の手に残されていた新田荘内の平塚郷を没収し、同時に上野国の守護又代官長崎孫四郎に、新田氏討伐が下知された。
・元弘 3年(1333年)5月8日:新田荘内の生品神社で挙兵した新田勢。
・同年5月9日:新田勢は、利根川を渡って武蔵国に侵攻し、周辺の国々から反幕派を集めて、20万余りにも膨れ上がった。
・同年5月11日:入間川合戦で、北条軍は敗北。
・同年5月12日:久米川合戦で、北条軍は敗北 ・同年5月15日:第一次分倍合戦では、北条軍は大勝し、新田勢は、掘兼に退却 ・同年5月16日:第二次分倍合戦では、新田勢が、北条軍に奇襲をかけ、北条軍は敗北し、府中まで退却。
このとき、悲報が入ってきた。
「さきに上洛せし足利尊氏殿、御味方を裏切って宮側となり、六波羅府を攻撃、我が六波羅軍四三二人、近江番場の蓮華寺にて、全員御自害との由」。
この報を聞いた北条軍は、潰走した。
迫っていた新田勢は、そのまま府中を通り過ぎ、鎌倉街道上ノ道を南下し、鎌倉に迫った。
・同年5月18日:新田勢は、大軍を三隊に分け、鎌倉の西側の三口、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂にむかって、鎌倉を攻撃した。
鎌倉方も、この三口を固めていた。
小袋坂道を固めたのは、現執権赤橋流北条守時であった。
守時の妹登子の婿、足利高氏が敵に寝返ったので、死を覚悟していた守時の赤橋軍は、ついに新田勢背後の洲崎(鎌倉市寺分一丁目)にまでせまった。
しかし、赤橋軍では、軍兵の多くが戦死し、やがて守時は自刃し、南条高直以下九十余人も、続いて切腹して果た。
(洲崎の戦い)。
極楽寺坂でも、新田勢は苦戦していた。
一計を案じた新田大舘宗氏は、極楽寺坂道の攻撃路を新田綿打氏義に委ねて、自らは稲村ガ崎に向かった。
同日の夜、手兵300騎を引き分けた大舘宗氏は、秘かに稲村ガ先から干潮によってやや広くなった波打際を、猛進した。
しかし、待ち受けていた北条勢によって、大館宗氏の主従11名は稲瀬川のほとりで北条軍の攻撃を受けて 全員討ち死にした。
生き残った者は内側から霊山に逃げ登った。
新田勢の総攻撃は、三道のいずれからも鎌倉に突入できず、失敗終わった。
・同年5月20日:日中、第二回の新田勢の鎌倉総攻撃が前回と同じ三道で行われた。
・同年5月21日:化粧坂攻撃を指揮していた新田義貞は、50騎を引き分け、自軍の背後に退き、指揮官を失った極楽寺坂攻撃軍のもとに、本陣を移した。
・同年5月21日の深更・義貞は稲村ケ崎の厳頭に立ち、海神に祈り、黄金造りの太刀を海中に投じた。
・同年5月22日の早暁・奇跡が起こった。
急に干上り、海水が沖合はるかに退いて幕府の軍船が二十余町も流されいった。
新田勢は、稲村ガ崎の遠干潟を一気に駈け抜けて、鎌倉に突入していった。
鎌倉防衛線の一角はついに破れた。
新田勢は、極楽寺坂の守幕府軍の背後に迫った。
状況を見た新田勢は、正面から極楽寺坂を猛攻した。
前後から挟撃された北条貞直は、新田勢に斬り込んで戦死した。
化粧坂、小袋坂も、鎌倉に突入した新田勢に背撃されて、いずれも潰滅した。
・防衛の第一線が敗れた今、第二線を敷く場所は、若宮大路しかなかった。
新田勢の若宮大路東側への突入は、しばらくの間、阻止された。
この間隙を縫って、北条高時は自館(宝戒寺)を出、小町大路を少し南下し、東勝寺橋を経て滑川を渡り、東勝寺に入った。
やがて東勝寺に黒煙が上がった。
北条高時は自刃し、高時に殉じて自刃したの者は、総じて283人に及んだ。
・元弘3年(1333)5月22日、ついに鎌倉幕府は滅んだ。
源頼朝が鎌倉に入部したのは、治承4年(1180)10月6日。
ついに鎌倉幕府は、その幕を閉じた。
参考文献:鎌倉歴史散策 奥富敬之。
うちの先祖は、ここで大館宗氏を守って、本間山城左衛門らに斬り殺された11人の1人です。
この戦いが元で、新田義貞は、極楽寺からの鎌倉侵入を諦め、海から進撃することを決意しました。
それを知った本間山城左衛門ら一族は、成就院で自害したと言われています。
小さな石碑と説明板がある。
新田義貞の家臣の宗氏十一人らの自刀の地。
ここはそれらの墓です。
大切に保存されている、という事が嬉しい。
鎌倉を攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通。
戦いは1333年5月18日から始まった。
新田義貞は、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏に命じた。
鎌倉幕府は、極楽寺切通に大仏貞直が防備を担当した。
大舘宗氏は極楽寺切通を突破したが、稲瀬川付近で宗氏以下11人が討死している。
1333年(元弘3年)鎌倉攻めの新田義貞軍の浜手の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)は大軍を率いて極楽寺坂の切通しへ攻め込みましたが、北条方の猛反撃をうけて多数が討ち死にし、総退却になりました。
そして、最後に残った11人もここで自刃してしまったと伝えられています。
ここにその11人を葬り、十一面観音の像を建ててその霊を弔ったので、十一人塚と呼ばれています。
この塚の上には大きな松の木がありましたがそれは枯れて、今の松はその後に植えたものです。
名前 |
十一人塚 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めの際に、極楽寺切通しから攻め込もうとした新田勢の大将 大館宗氏が北条勢に討ち取られ、最後に残った十一人がここで自刃した場所たそうです。
今はのどかな住宅街、兵どもが夢の跡♪