住宅街の小さな公園の中にひっそりとあるのでGoog...
木曾塚(木曽義高の墓) / / .
入り口に注意が必要です。
すぐ隣に公園みたいなところがありますが、そこからは入れません。
常楽寺側の横道から登るか、公園通り過ぎた1つ目の角右に曲がるしか行けません。
墓碑銘と向かって右の石碑の文字が読めますので、是非読んでみてくださいね。
常楽寺山門から左に小道を入り、しばらく(1分)いくと、未舗装の小道になります。
関東ローム層むき出しの急目の階段。
しまった、サンダルで来るんじゃなかった。
上がっていく途中に伝大姫墓隣じゃないけど近くに埋葬してもらったのかな?((涙))もう少し頑張って上ると、清水冠者のお墓どなたかがお花を備えてました。
こちらからいかなくても、すぐ裏が舗装の道なので、そちらからも入れますが、常楽寺からの道のほうが風情があります。
きついけど。
お寺から山道をちょっと登った所に有りますが、裏のむくどり公園からなら、一つ柵を抜けるだけで、アクセス良好です。
頼朝に代わって、冠者殿に謝りに行きました。
仏花と線香を上げました。
結構わかりにくいところにあり、山門を一回出て、左の細い道を抜けないと行けません。
木曾塚は、朝日将軍と呼ばれ京から平氏を追い出し「都落ち」させた木曽義仲の子、「源義高」の墓所といわれています。
常楽寺の門の左脇にある路地を進み、常楽寺の裏山にあります。
また、木曾塚まで登る道の途中には、粟船稲荷姫宮塚があり、「源義高」の許嫁であった大姫のお墓とする説もあります。
平氏の都落ちといった源平合戦序盤の立役者である木曽義仲ですが、源氏の棟梁争いで、源 範頼・源 義経の軍勢に討たれます。
木曽義仲が源頼朝公に人質として送られた「源義高」も、許嫁とされた頼朝公と北条政子の娘 大姫の願いも空しく討たれてしましました。
討たれた「源義高」が12歳、残された許嫁の大姫が7歳でした。
大姫は20歳で亡くなりますが、亡くなるまで「源義高」の死を嘆き床に伏したままであったと伝わっています。
粟船稲荷姫宮は、常楽寺の開基とされる北条泰時の娘の墓とする説もあるようですが、木曽塚と並んで祀られている姫塚には、大姫が祀られていると思いたいです。悲恋の姫にいくばくかの慰めとなりますように。。。
公園の片隅にありました。
鎌倉時代に亡くなった方の塔婆が上がってあり地元の関心の高さを感じた。
住宅街の小さな公園の中にひっそりとあるのでGoogleマップで確認しないと分からない。
石碑と供養塔、卒塔婆があるだけだが華美に祀られている感じがないのが好き。
静かに眠っていると思ったので写真など撮りたくなかったのが本音静かにお参りして静かに帰りたい場所。
大船むくどり公園内にあるが、非常にわかりづらい。
公園内にいてもパッと見気づかないレベル。
木曽義高は木曽義仲の長男。
人質として鎌倉に送られ、義仲敗死後に頼朝により誅された。
▼大船駅に近い閑静な住宅街の階段を上っていくと小さな公園があり、その先に木曽義高のお墓があります。
▼ご存知のように木曽義高は、木曽義仲の嫡男です。
▼同じ源氏同士でありながら、対立していた関係の解消のため11才の木曽義高と頼朝の長女・6才の大姫との婚約が成立しました。
▼これにより、義高は鎌倉へやってくるのですが、婚約とは表向きの話、実質義高は人質なのです。
▼11才とは思えない、大人の義高は、自分が人質として鎌倉に来たことを自覚し、その憂いを含んだ立ち居振る舞いは、周囲の大人からも「いじらしい」と感じられただけでなく、6才の大姫をも大人顔負けの大恋愛に引き込んでしまうのです。
▼しかし、二人の父親・頼朝と義仲の仲は、急速に悪化してしまいます。
▼義仲は怒涛の如く都に向い進撃を開始し、平家を都から撃退させるまでは良かったのですが「木曽の山猿たちが都の食糧を漁りに来た」と悪口を叩かれるくらい、京における義仲の軍律は乱れに乱れ、後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じます。
▼頼朝は早速、弟の範頼・義経を大将に軍勢を出し、義仲を敗死させます。
▼父・義仲の死によって、鎌倉にいる義高の立場は急速に危うくなります。
▼頼朝は自分が命を助けられたことが、平家の甘いところだと認識し、義高を生かせば、同じように父・義仲の仇である自分を討ちに来ると確信しているのです。
▼これを察知した政子は、義高を密かに屋敷を脱出させます。
▼しかし、頼朝はこれに気が付き、追っ手を差し向け、埼玉の西、入間川のほとりで義高に追いつき、斬ってしまうのです。
▼大姫はこの事実を後から知ってしまうのですが一切食事を取らなくなり、大熱を発しました。
▼子供のこと、そのうち忘れてしまうだろうと思った頼朝・政子両親は後々後悔することとなります。
彼女は20歳で死ぬまで義高を想い続けるのです。
▼そのような大恋愛の対象・かつ悲運の義高のお墓が、鎌倉から離れたここにあります。
まだ子供とはいえ、入間川の畔で斬首した首は鎌倉で首実検したからなのでしょうか?また人質だったからこそ、鎌倉郊外のこの場所に埋められたのでしょうか?▼この義高の墓のある丘を南側へ少し下ったところに、大姫の墓との言い伝えがある祠があります。
(写真を参照してください)▼真実かどうかは良く分かりませんが、義高も大姫も正直、鎌倉はゴリゴリなのでしょう。
なので大船という少し距離を取った場所にお墓があるのかもしれません。
▼1つだけ救いがあるとすれば、義高のお墓も大姫の祠も鎌倉方面を向いて建っているということです。
仲良く二人で「鎌倉はコリゴリだね~」と言っても鎌倉と深い関係にある彼らは、これからの鎌倉も見守り続けていくのでしょう。
#japanlocalguides #マイナー史跡。
木曽義高墓所。
大船中央病院の東方、閑静な住宅街の中の丘の上に小さな公園がある。
その一角に、質素な墓石と大正15年に立てられた墓碑がある。
常楽寺からの険しい山道の頂上にある源頼朝の娘・大姫と婚約して儚く11歳で散った武将・源義高公のお墓と塚🙏儚さを感じる程殺風景で悲しい気持ちになった😢奥の方に立て札があるのもちょっとわかりづらいかも(泣)
看板も無いのでわかりづらいです。
塚と墓石あり。
名前 |
木曾塚(木曽義高の墓) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-46-1484 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
裏側の大船むくどり公園側から入りました。
こじんまりしたお墓でしたがお花がまだいけられていました。
清水冠者様として大切に祀られていることを感じました♪