紀州徳川家の家老水野氏が、其の太平寺の遺址を改修せ...
23.太平寺(たいへいじ)見どころ(寺院の雰囲気.境内の全体.史跡.四季.拝観注意事項 等):鶴岡八幡宮の東隣、横浜国立大付属小・中学校沿いに北へ7~8分歩き、右手にあるのが来迎寺 (西御門)です。
その来迎寺の階段の上り口左側に,1921年(大正10年)三月に鎌倉町青年会が建てた「太平寺跡」を示す石碑のみが現存している。
この来迎寺がある辺りに鎌倉尼五山第一位の太平寺があった。
(来迎寺裏のテニスコートが太平寺の跡といわれている)由来 (創建・開山・歴史・特徴 等):開基・開山は妙法尼。
頼朝が平治の乱で永暦元年(1160)2月に捕らわれた時、平清盛の継母である池下禅尼が頼朝が亡児家盛に似ていることから助命を乞い、頼朝は流罪で済んだ。
後に頼朝が池下禅尼の旧恩に報いるために姪である妙法尼の願いを聞き入れ、建立したという伝説がある。
一方で史料上からは弘安6年(1283)頃と考えられている。
鎌倉時代から室町時代に繁栄し、特に関東公方足利基氏の室清渓尼、持氏の娘昌泰道安、成氏の娘昌全義天と足利氏関係の女性が住持したことにより、太平寺は足利氏との関係が続いた。
弘治2年(1556)、安房に勢力を持つ里見義弘が房総半島からに鎌倉に侵攻した際、義弘は尼僧、青岳尼(しょうがくに)と寺の本尊、聖観音立像を略奪して安房へと連れ去った。
青岳尼は天文7年(1538)に戦死した小弓公方足利義明の娘と伝えられ、安房に連れ去られた後、義弘の命によって還俗させられ、妻になったという。
こうして住持を無くした太平寺は廃寺となったが、 安房へと持ち去られた聖観音像は東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺の松ヶ岡宝蔵に安置されている。
また旧太平寺の仏殿は、現在の円覚寺舎利殿である。
太平寺の旧跡には江戸初期に日蓮宗の高松寺(こうしょうじ)が建立されたが、昭和6年(1931)に宮城県栗原郡に移転したため現在は同地にはない。
アクセス:鶴岡八幡宮の東隣、横浜国立大付属小・中学校沿いに北へ7~8分歩き、右手にあるのが来迎寺 (西御門)です。
その来迎寺の階段の上り口左側に,「太平寺跡」を示す石碑のみが現存している。
石碑は、西御門の来迎寺さんの階段下脇にひっそりと立っています。
見ればすぐわかるような場所ですがら見落としてしまいそうなところにあります。
足利青岳尼公様紀行 太平寺跡と來迎寺。
鎌倉尼五山の一寺、大平寺があったとされる場所。
1500年代に里見氏が行なった鎌倉攻撃の影響で廃寺となったと言われる。
その理由は戦火にのまれた事以外に、当時の住職である青岳尼が里見義弘に本尊と共に奪われた事にも起因があるとされる。
しかし、一方で青岳尼は義弘と恋仲になり自ら義弘の元に行ったとする研究もある。
これが本当ならゲスな話ですな。
その後本尊は東慶寺に、仏殿は円覚寺の塔頭として移築され国宝に指定されているが、現地には跡地を示す石碑しか無い。
名前 |
太平寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
『今の高松寺は、寛永中、紀州徳川家の家老水野氏が、其の太平寺の遺址を改修せるものなり。
昭和六年三月建之』と書かれているが、当時あったとされる高松寺は、この碑の出来た昭和6年に、宮城県栗原市に移転し、現存しない。
旧高松寺山門は、現在鎌倉山の蕎麦店「檑亭(らいてい)」に移築されている。