源頼朝のご落胤という説がある薩摩島津家の始祖島津忠...
大江広元と毛利季光と島津忠久の立派なお墓がございます鎌倉幕府の屋台骨を支えた大江広元とその子の毛利季光と頼朝の祖母が乳母であり頼朝の庶子であると自称してた島津忠久のお墓でございます明治維新で両藩が江戸幕府を打倒するわけですが島津のお墓が1779年にこの地に作り1823年に毛利家が大江広元のお墓をこの地に作り1921年に毛利の墓をここに移築しました1867年が大政奉還です何か因果を感じますよねぇ。
『鎌倉殿の13人』主要キャラ政所別当大江広元殿の墓です。
毛利、島津との関係は何方かのクチコミを⁉️
2022.11.20ここは興味深い場所だ。
鎌倉時代に活躍した3人の墓所となっている。
3人とも決して教科書に出てくるような有名人ではないが、背景が面白い。
島津家と毛利家の祖先が並んで祀られているのだ。
大江広元公家出身で初代政所別当となり、鎌倉幕府の運営を支える。
鎌倉殿の13人でも主要登場人物。
毛利季光大江広元の四男。
三浦氏との戦いの宝治合戦で三浦方につき、隣にある頼朝の法華堂で自刃する。
所領の毛利荘から毛利性がきているようだ。
戦火を免れた四男の子孫が元就へと繋がる。
島津忠久祖母が源頼朝の乳母で、その縁で頼朝から重用されて、平家討伐で武功があり、その恩賞として南九州の島津荘の惣地頭となったある。
その子孫が島津家へと繋がる。
島津家には忠久が頼朝の庶子であるとの説がある。
まず島津家が安永8年(1779年)に忠久の墓を造営し、文政6年(1823年)に毛利家が隣に大江広元の墓を造営したそうだ。
毛利季光のものは、文政6年に近くに造営したものを大正10年(1921年)に移設したとのこと。
毛利家が造営した際に、島津忠久のための階段を使わずに、すぐ横に別の階段を設けている。
また墓の敷地も塀で仕切られていて、プライドというか対抗心を感じ取れる。
北条義時の法華堂から、石段を登りきった所に、大江広元と毛利季光(もうりすえみつ)、島津忠久の墓が並んであります。
大江広元は1148年に生まれ1225年に亡くなったとされます。
始めは朝廷に使える下級貴族でしたが、源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所と鎌倉幕府の初代別当を務め、鎌倉幕府創設に貢献しました。
毛利季光は大江広元の四男で生涯3代将軍源実朝に使えます。
季光は、父の所領のうち相模国毛利荘を相続したことから、毛利を名のり、毛利氏の祖となりました。
鎌倉武士として1247年に亡くなっています。
島津忠久は、1179年に生まれ1227年に亡くなったとされます。
本姓は惟宗忠久と称し鎌倉幕府御家人でした。
島津荘下司職 地頭職に任ぜられ島津を名のります。
その後大隅、薩摩の守護となります。
島津氏の祖として薩摩をおさめるようになります。
ここの墓は、1779年子孫の島津重豪によってたてられました。
明治維新で同盟を結んだ薩摩と長州の祖がここで繋がっているのは、不思議な縁です。
北条義時墓(北条義時法華堂跡)から階段で登ったところに有ります。
何か北条義時を見下ろしているような位置にありました。
大江広元・毛利季光は源頼朝を支え、島津忠久は大江広元の子孫、毛利季光は毛利元就の、島津忠久は九州島津家の祖先とのこと、勉強になりました。
北条義時法華堂跡の背後の斜面に3基並んで存在する。
長い階段を上った先にある。
いずれもやぐらの中に存在する五輪塔。
島津忠久は薩摩島津家の始祖であり頼朝期からの御家人でもある。
大江広元は京の下級貴族の出身であったが、源頼朝に仕え鎌倉幕府の成立に大きな功績を遺した人物である。
毛利季光は大江広元の子供で長州毛利家の始祖となった人物である。
従来当地を訪れる人は稀であったが、大河ドラマの影響で参拝者に居るのには驚いた。
また、広元の墓にのみ多くの供物が添えられていた。
なお、忠久の墓から広元・季光の墓に行くには、一旦途中まで階段を降り、再び別の階段を上る必要がある。
北条義時法華堂跡のさらに奥、階段を登ったところにあります頼朝の墓の右奥の山道からも来られますが険しいのでおすすめしません。
この大江広元公の子孫が、中国に下り毛利氏となりました。
島津忠久公の子孫は薩摩を治めました。
子孫は薩長として、源頼朝公の起こした武士の世を終わらせ、明治維新を成し遂げました。
源頼朝公の墓所より右手の山麓の中腹に現れた鳥居。
急な階段が二列。
その先にあるのは三つのやぐら墓。
お世辞にも常に何方かが手入れしている問い訳ではなく、ひっそりとあるといった感じです。
島津初代島津忠久の墓参りをしました!鹿児島県出水市野田町下名(しもみょう)の感応寺(かんのうじ)に島津家初代から5代までの墓があります。
ここは、初代島津忠久の分骨です。
是非、感応寺にも行って見て下さい。
島津と毛利の墓が並んでいるそれだけで見る価値があります。
急な階段を登ると3つあります。
説明あれば、より理解できるのにと思いましたが、整備された感じです。
長州・毛利の祖薩摩・島津の祖後に手を取り合った両者のルーツの地。
維新の志士たちも多数訪れたこの地。
只々、感動致しました!
源頼朝の墓に寄り添うように整備された大江広元、島津忠久の墓。
頼朝の墓より急な斜面の石段を上った先に並んでいます。
足元にはご注意を!
立派なやぐら。
歴史好きなら行く価値はあるかもしれません。
ただ、入口に標識があるだけで、登った先には墓の説明文等は一切無い。
階段が急でした、、
法華堂跡の石鳥居を潜って狭い石段を注意しながら登ると中央やぐらが大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光である。
中央やぐらと左側やぐらの囲いは一つにになっています。
右側の階段を登ると右側やぐらが源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓である。
右側のやぐら囲いは一つ。
やぐらの入口は各々別に「長州藩」「島津藩」と仲良く並列し別な階段になっています。
私は、失礼でしたが左側階段から5.6段下がって右側階段に移動し参内しました。
島津氏、毛利氏の両家は祖先を顕彰するため、鎌倉殿のそばに墓を設けたものと考えられます。
源頼朝の墓の近くにあります。
ココもスロープが無く階段が多くて急な上、夏場は蚊が出やすいので注意。
2017年11月23日初訪問。
大江広元・毛利季光・島津忠久の三人の墓が並んでいる。
毛利家臣、村田清風が整備した。
長州藩家老村田清風は、文政6年(1823年)に鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。
そのときに詠んだ俳句が大石本陣に残っており、それを記念して、島津忠久の墓の参道登り口には村田清風句碑『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』(明治23年(1890年)建立)がある。
大江広元の墓の参道登り口ではないのが不思議な感じがする。
当時、大石本陣は薩摩本陣と呼ばれてぃたが長州藩も宿泊していたのであろう。
薩長は同宿のよしみという感じだろうか。
さらに幕末になった安政5年(1858年)になると、三浦半島の海防の任に着いていた長州藩士が墓を再整備し、参道の石段の上下に大江広元公の石燈籠を建立している。
石段の上の向かって左側には毛利季光公の石燈籠が1基だけ建っているが後世に移されたものであろうか?幕末には、薩長が頻繁に、源頼朝公墓所と大江広元公、島津忠久公の墓を訪れていたことが窺い知れよう。
なお、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあったとされる。
夏に訪れると汗だくだく。
大江広元・毛利季光・島津忠久の三人の墓が並んでいる。
毛利家臣、村田清風が整備した。
長州藩家老村田清風は、文政6年(1823年)に鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。
そのときに詠んだ俳句が大石本陣に残っており、それを記念して、島津忠久の墓の参道登り口には村田清風句碑『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』(明治23年(1890年)建立)がある。
大江広元の墓の参道登り口ではないのが不思議な感じがする。
当時、大石本陣は薩摩本陣と呼ばれてぃたが長州藩も宿泊していたのであろう。
薩長は同宿のよしみという感じだろうか。
さらに幕末になった安政5年(1858年)になると、三浦半島の海防の任に着いていた長州藩士が墓を再整備し、参道の石段の上下に大江広元公の石燈籠を建立している。
石段の上の向かって左側には毛利季光公の石燈籠が1基だけ建っているが後世に移されたものであろうか?幕末には、薩長が頻繁に、源頼朝公墓所と大江広元公、島津忠久公の墓を訪れていたことが窺い知れよう。
なお、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあったとされる。
階段が急なのでご注意を。
名前 |
大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
大江広元、その息子でこの地で三浦一族とともに自刃した毛利季光、源頼朝のご落胤という説がある薩摩島津家の始祖島津忠久の三人が眠る。
長州と薩摩の殿様の始祖が一緒にいるというとんでもない場所だ。