2017/12/06に久々の参拝です。
取敢えず源頼朝廟所、和田の乱源実朝避難、三浦泰村一族五百余人自害の大正十三年三月鎌倉町青年團建の碑が有ります。
後は細く該当の史跡が別れていて其々の項目で感想と写真を追加この地味な碑も100年経って十分役目を果たしてるのでは?
鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂が立っていた場所。
1180年平家追討のために挙兵した源頼朝は同年鎌倉に入りました。
1185年に平家を1189年に奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。
1199年に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちにもあつい信仰を集めました。
立て看板にそのような説明がされています。
近くに、荏柄天神社、鎌倉宮などもあります。
散歩がてら歩くのにちょうど良いです。
法華堂跡は、大蔵幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。
1189年(文治5年)、頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂で、1191年(建久2年)、高僧文覚に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられた。
平治の乱で頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀「髭切」も収められた。
持仏堂は、頼朝死後法華堂と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が、法華堂跡と言われている。
金沢街道より北方の少し入った山の中腹で、静かな落ち着いた場所。
東の山腹には、頼朝側近であった大江広元、その四男長州毛利の祖となる季光、頼朝の子と一説にある島津忠久などの墓もある。
頼朝が館を構え、幕府中枢として政治を行った大蔵幕府の裏山にある位置関係に興味が湧く。
名前 |
法華堂跡碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
2022.11.20入口に法華堂の碑が立つ。
お墓は階段を登ったところだ。