住宅街の突き当りにひっそりと見えてきます。
法華堂跡(源頼朝墓) / / .
2024年3月29日に参拝しました。
正治元年1199年に53歳で亡くなった鎌倉幕府初代将軍源頼朝は、この地にあった法華堂に葬られたそうです。
法華堂は廃絶してしまったとのことでした。
第8代薩摩藩主島津重豪(しげひで)が、このお墓を再建して現在に至っています。
島津重豪は、藩校造士館や明時館(天文館)を設立した蘭学好きの大名として有名です。
2022年7月11日「鎌倉殿の13人」の紀行を見た後に手前の白旗神社などと合わせて訪問しました頼朝のお墓を前にして五重塔って何だろう?と思い見てみたら五重の屋根を持つ仏塔で下から地・水・火・風・空と考え仏教的な宇宙観を表すそうわかったようなわかってないような?!でも面白い話だと思いましたその近くの別の高台には北条義時の墓と案内にはあるけど仏塔?などは何も見当たらずそこから更に階段を上ると大江広元などの墓はあり沢山のお供え物(飲食物)を暑い日に見て傷みが早そうだな?と少しだけ気になりましたその辺り一帯を鎌倉殿の13人で見ている場面と実際の大昔の光景の想像を重ねてみたら感慨深くなりました。
2022.11.20入口に法華堂の碑が立つ。
お墓は階段を登ったところだ。
源頼朝のお墓から徒歩で15分くらいの場所に在ります。
かいだんがかなりきついです。
島津忠久のお墓は2人とは階段が別になっているので疲れます。
体力に自信のない方にはお勧めしません。
鹿児島出身の方は1度、足を伸ばしてはいかがですか。
法華堂と白旗神社源頼朝の墓の階段手前にある。
取敢えず源頼朝廟所、和田の乱源実朝避難、三浦泰村一族五百余人自害の大正十三年三月鎌倉町青年團建の碑が有ります。
後は細く該当の史跡が別れていて其々の項目で感想と写真を追加この地味な碑も100年経って十分役目を果たしてるのでは?
白旗神社入口付近にあります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂が立っていた場所。
1180年平家追討のために挙兵した源頼朝は同年鎌倉に入りました。
1185年に平家を1189年に奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。
1199年に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちにもあつい信仰を集めました。
立て看板にそのような説明がされています。
近くに、荏柄天神社、鎌倉宮などもあります。
散歩がてら歩くのにちょうど良いです。
法華堂跡は、大蔵幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。
1189年(文治5年)、頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂で、1191年(建久2年)、高僧文覚に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられた。
平治の乱で頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀「髭切」も収められた。
持仏堂は、頼朝死後法華堂と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が、法華堂跡と言われている。
金沢街道より北方の少し入った山の中腹で、静かな落ち着いた場所。
東の山腹には、頼朝側近であった大江広元、その四男長州毛利の祖となる季光、頼朝の子と一説にある島津忠久などの墓もある。
頼朝が館を構え、幕府中枢として政治を行った大蔵幕府の裏山にある位置関係に興味が湧く。
賑やかな鶴岡八幡宮から10分ぐらい歩くと、住宅街の突き当りにひっそりと見えてきます。
2017/12/06に久々の参拝です。
裏の公園では子供たちの歓声が上がっていました。
名前 |
法華堂跡(源頼朝墓) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-61-3857 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
平日に訪れましたが 学生がとても多く訪れていて 大変混雑していました。