葉山港の後ろに位置する小山の上に築かれた城で小規模...
旗立山(鐙摺城出城跡) / / .
日影茶屋さんの駐車場の脇に、上りの階段があります。
途中から、険しい山道になりますのでお足元には、ご注意下さい。
頂上は平たい土地。
少し塚の様な物がありますが、こちらが伊東祐親入道供養塚になります。
歴史に思いを馳せ、御参り下さい🙏💐
「鎌倉殿の13人」、衣笠合戦(三浦vs畠山)の前哨戦で三浦が陣を構えた場所。
その他にもこの鐙摺エリアは伊東祐親が首をはねられた地であったり、政子の激しい嫉妬心から後妻打ちにあった亀の前が逃げのびた地(大多和義久の館とされる)でもあったり、今(2022.3.28)最もタイムリーな場所。
葉山港の後ろに位置する小山の上に築かれた城で小規模ながら郭と土塁が残っています。
鎌倉御家人の三浦氏が海上交通の監視として利用していたとのことで江ノ島側が開けていて相模湾が一望できます。
伊豆に流された源頼朝を監視した平氏方の伊東祐親の供養塔もあります。
25mの高さですので、10分程で登れてしまいますが、この地を治めた三浦氏との縁の深い場所であり、「旗立山」、「鐙摺山」、「軍見山」と3つの地名をあります。
まず、「旗立山」の謂れは、石橋山の合戦に敗れた源頼朝公を救うための軍勢が戦いに間に合わず、軍勢を引き返す帰路に、当時は平家側であった畠山重忠の軍勢と小競り合いとなり、後に三浦一族の隆盛を導いた三浦大介義澄がこの山に旗を立てて気勢を上げ軍勢を鼓舞したという伝説から旗立山とも呼ばれています。
次に、「鐙摺山」は、挙兵前の源頼朝が、鐙摺にあった太多和三郎義久(三浦大介義明)の別館を訪れた際、頼朝公がこの山に登る際に、頼朝公の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたとも伝わっています。
また、平家討伐後は、鎌倉を追い出された愛妾、亀の前をこの鐙摺にある大多和義久の屋敷に逃したこともあり、頼朝は度々この鐙摺を訪れたともいいます。
なお、頼朝公の最初の妻であった八重姫の父親である伊東祐親公がこの鐙摺山で斬首されたと伝わっており、その伊東祐親公の供養塔もあります。
三浦家と源頼朝公の深い繋がりが分かる場所でもあります。
最後は、別名「軍見山」とも呼ばれます。
源頼朝公と深い信頼関係を築いていた三浦氏(三浦大介義明・三浦義澄)ですが、最期は宝治合戦で北条氏に滅ぼされてしまいます。
その後は、傍流の相模三浦氏による再興されますが、最期には、伊勢新九郎率いる後北条氏に攻めらて滅ぼされてしまいます。
その戦いの中、小坪の住吉城(住吉城址)から退却する三浦道寸がこの山に登って敵を偵察したことに因む地名と伝わっています。
初期、隆盛、最期と三浦氏の歴史に因む3つの名前が、この小さな山にあると思うと不思議な感じがします。
2020年3月11日 バイクて新井城址、三崎城址へ向かう前に訪れました。
葉山港のすぐ近くに盛り上がった小山が鎧摺城址だそうです。
日影茶屋脇に説明板た鉄の階段があります。
ここから急坂を登ると頂上は平な公園になっていて、見晴らしが良い。
伊東祐親の供養塔があります。
気軽に登れる絶景ポイント(^^)/見落としがちな、地味な入り口からは想像にしない景色。
鐙摺(あぶずり)はかつて源頼朝が視察の際馬で登り、鐙(あぶみ)を摺ったほど狭い道からの由来らしいですね。
歴史ありますね~日影茶屋駐車場脇のひっそりとした階段を登り、その先に例の細い道がありました。
戦の物見用との記述もありますが、確かに景色が良かったです。
今では葉山らしい、きれいな海に浮かぶヨットが絵になります。
眺めが良い。
三浦氏の前線基地みたいな城。
マリーナ一望のスポット。
日影茶屋の向かいにある小山で、道路脇の鉄製階段を登ってすぐ。
山頂は広くはないが、平らになっていて、眼下に葉山あぶずり港、葉山新港、葉山マリーナが見える。
空気が澄んでいれば江ノ島の向こうに富士山や伊豆半島が見える。
この山のあたりに三浦氏大多和義久の城があったとされていて、頼朝が伊豆に流されていた時の平家方監視役で、娘と頼朝の間にできた子を、平家を恐れて殺害した事で有名な、伊東祐親の供養塔がある。
名前 |
旗立山(鐙摺城出城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
日本城郭大系の情報はデマですよ。
逗子市教育委員会も葉山町教育委員会も桜山9-4の丘陵一帯が鐙摺城としていますし、実際に国土地理院地図色別標高図で見ても桜山にふんだんに平場や竪堀や裾切された尾根道地形も残っています。
源平盛衰記も旗立山が鐙摺城の北西と記載が有りますが、旗立山が鐙摺城では小浜は北西では無くて北東になってしまうんですね。
実は京浜急行電鉄が桜山の開発権を昭和~平成末期まで持っていたので、学者様達は大企業相手に忖度したか自己保身の為に争いに成りそうなので意図的に記載しなかったかのどちらかしか有りません。
もし、ちゃんと調べてませんでした気が付いてませんでしたなら、日本城郭大系の記者はそのていどの質だったと言う事に成るので、基本読む側は疑ってかかった方が良いでしょう。
昭和の読み物を鵜呑みにしては痛い目に遭いますよ。