新編武蔵風土記稿に記載の有る泉蔵院です。
熊野神社(大霊山泉蔵院桐谷寺廃寺) / / / .
鎌倉時代創建の古い社。
並立してお寺もあったが、神仏分離礼の折に廃寺になった。
こじんまりした落ちついた神社。
御朱印いただきました。
この神社の参道の傍らにかつて「日の出幼稚園」があり、自分もそこの卒園生です。
今はアパートになってます。
神社の様子は当時と変わらず、懐かしいです。
こんなに由緒正しい神社とは当時は思ってもみませんでした。
町中にありながら、森閑として心静かに過ごせる場所です。
参道から眺める杉田の街もなかなかいいものです。
金沢礼所旧29番でした。
行って見ました。
泉蔵院跡なので隅々調べていたら山に燈籠石が残ってあります。
廃仏毀釈なって無くなったので残念でたまりません。
源頼朝が開いた凄い神社。
昔は修験道だったらしいです。
京急杉田駅からほど近くにあります、熊野神社です。
住宅街を抜けた静かな丘のてっぺんにあります。
建久3年(1192)、源頼朝の命で創建されたこの神社は、急な高い石階段の参道が続きます。
そして、参道石階段を登ると鎮守の森に囲まれた別世界です。
今でこそ、「熊野神社」のみですが、元々は1192年に山上に熊野三所権現社を祀り、麓に紀州山桐谷寺を建立したそうです。
後に桐谷寺は大霊山泉蔵院となります。
明治の神仏分離令により、泉蔵院は廃寺になり、神社統合令で2社を合祀し現在に至っているそうです。
神社の拝殿、本殿は昭和62年に新たに建てられた権現造りです。
その昔、杉田に観梅客が海路・陸路から訪れたころ、神社境内の高台は梅見の場所として知られ、にぎわっていたそうです。
境内には梅を詠んだ芭蕉らの句碑があり悪くない雰囲気。
のんびり休むのにはいい場所かも。
新編武蔵風土記稿に記載の有る泉蔵院です。
元々は室町時代初期まで鎌倉山崎地区に存在した修験道の大道場の山崎泉蔵院の熊野権現道場として源頼朝公によって開かれました。
戦国時代に突入した頃に、鎌倉も戦火で乱れたので修験道寺院としての機能を現在の熊野権現の道場だった磯子区中原の熊野神社に移転しました。
戦国時代に成ると北条家臣で相模十四騎筆頭と俗に言われ、後に関東最強の武将、玉縄城主北条綱成公の付家老として活躍した間宮康俊公等間宮家から地域の鎮護として大切にされました。
この支援は間宮家が江戸時代中期に久良岐郡を離れるまで続いた様です。
そのまま泉蔵院は明治時代までは大規模な境内地を誇る修験道の道場でした。
明治の廃仏毀釈、神仏分離令で神職を持つ者は僧籍を捨てよとの官令を受けて、当時の御住職が苦慮の末に寺院機能を廃止し堂宇を撤去し、熊野権現の名を熊野神社に改めて神社としてのみ存続する事に成り、現在に至ります。
今では町の中の一般的な規模の神社ですが、雰囲気が良くとても歴史深い神社です。
横浜市磯子区中原〔熊野神社〕に芭蕉句碑が建っている。
梅か香にのっと日の出る山路かな。
住宅地のなかにありながら深い木々に囲まれ、一歩足を踏み入れれば神聖な雰囲気に浸れます。
正面参道の階段は急勾配で磨耗していますが、横になだらかで整備された階段があるので登りやすいです。
本殿の右側からは杉田の町並みが一望できます。
新編武蔵風土記稿に記載の有る泉蔵院です。
元々は室町時代初期まで鎌倉山崎地区に存在した修験道の大道場の山崎泉蔵院の熊野権現道場として源頼朝公によって開かれました。
戦国時代に突入した頃に、鎌倉も戦火で乱れたので修験道寺院としての機能を現在の熊野権現の道場だった磯子区中原の熊野神社に移転しました。
戦国時代に成ると北条家臣で相模十四騎筆頭と俗に言われ、後に関東最強の武将、玉縄城主北条綱成公の付家老として活躍した間宮康俊公等間宮家から地域の鎮護として大切にされました。
この支援は間宮家が江戸時代中期に久良岐郡を離れるまで続いた様です。
そのまま泉蔵院は明治時代までは大規模な境内地を誇る修験道の道場でした。
明治の廃仏毀釈、神仏分離令で神職を持つ者は僧籍を捨てよとの官令を受けて、当時の御住職が苦慮の末に寺院機能を廃止し堂宇を撤去し、熊野権現の名を熊野神社に改めて神社としてのみ存続する事に成り、現在に至ります。
今では町の中の一般的な規模の神社ですが、雰囲気が良くとても歴史深い神社です。
名前 |
熊野神社(大霊山泉蔵院桐谷寺廃寺) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-771-6534 |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=277&cd=1204037&scd=&npg=4 |
評価 |
3.8 |
神職在住、御朱印を記帳して頂ける氏子神社。
普段は高台の社殿左手のご自宅に居られ、社務所のインターフォンで呼び出し出来る。