静かなお寺さんです入ってすぐに親鸞聖人の像や大きな...
IHIの社宅後に住宅地が造成され、その奥に静かに存在する。
静かなお寺さんです入ってすぐに親鸞聖人の像や大きな鐘があります昔からお世話になっているお寺さんです。
友が眠っていました。
住宅街にひっそりと。
所在地がちょっと分かりづらい。
間宮氏の墓が興味ある。
親戚のお墓があるのでいきました。
住宅街にえる墓地なので、静かです。
いつも車でいくので、道の混み具合など、詳細はわかりません。
駐車場はありますが、坂道なのでフロントの車高によってはスります。
前の車の時はスりました。
正式名は梅花山南無佛院成就坊現在は院号と寺号が改められ梅花山成就院とされている、間宮家の笹下城本丸下に在る寺院。
※間宮は忍者では無く宇多源氏末の“武家”。
本来、江戸時代までは成就院では無く成就坊と呼ばれ浄土真宗の御坊だった。
御坊とは修験道や仏教寺院の道場を指した総称。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼が、浄土真宗の御坊や浄土真宗以外でも宗派を問わず大寺院の回りにも在った支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在った事で僧侶の俗称として“御坊さん”が用いられた。
御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院。
【山号由来の杉田梅】室町~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だった間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので成就院のみならず旧間宮領は全て広大な梅林が有り、「杉田梅林」として有名だった。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も地名や梅林そのもが残る。
蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した。
笹下城の梅林も含めて杉田梅林と呼ばれたのは戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったから。
同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在した。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有る。
良如上人は成就院の梅林の見事さに感動し以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせた歴史が有る。
明治には皇族も度々観梅に来た程だった。
しかし、その梅林を含む境内地は戦後の宗教政策で接収され、不見識な横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった。
【昔の宗旨と寺域について】現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に普通の規模の寺院だが、中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有る。
当時の寺号は曲田山帶行寺と判明している。
法相宗は古い宗派で奈良時代~平安時代初期に全盛期の広がりを見せた宗派で、その後は天台宗や真言宗が流行する。
文覚上人が護摩行を行い文覚上人の親友だった源頼朝公の持仏を保有していた記録が有る事から、法相宗の後に頼朝公の時代には真言宗に成っていた様だ。
更に源頼朝公亡き後は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に浄土真宗に改宗している事が江戸時代の風土記稿の記録に有る。
最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった。
しかし檀家総代の家に無住職だった時代が有ると伝わっている。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有った。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていた。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然だろう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いていたのだろう。
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていない。
なので北条家に憚り大々的な間宮家からの支援無くなった時期も無住職の時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのだろう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた可能性は残る。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然だろう。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来る。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然だろう。
【間宮一族と記録に残る歴史】主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っている。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公、玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公、滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公を輩出し北条家臣団相模十四騎筆頭の武家とされた。
北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出した。
江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築した。
それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有る。
江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有るが、しかし第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とする学者がいる。
仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語だ。
戦災で焼けたのは本堂で、それは2016年に再建された。
しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なのだが、実際に礎石を見ると少なくとも修繕は間違いなくされているのが確認出来る。
恐らく現代の三門は大部分を修復されているか復興された門だろう。
【間宮家の宗旨について】・浄土真宗先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。
・神道と修験道と真言宗間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。
祖先は近江源氏の氏神である敦実親王で延喜式内社他で近江源氏一族の氏神であり沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。
更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である弘明寺、安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺、江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
・曹洞宗間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。
又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。
尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来する。
子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に観音寺を菩提寺として支援している。
・日蓮宗安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家菩提寺の杉田の妙法寺や江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。
なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が解る。
ウチの菩提寺です‼️☺️
15メートルを超す大きな「マキ」の木が象徴的。
名木を見上げれば清々しい気持ちになる。
月命日ですけど、由緒あるお寺さん。
笹下城本丸下に在る寺院。
間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院。
【山号の由来の杉田梅】室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は北条家の杉田梅の植林を実施していたので成就院のみならず旧間宮領は全て広大な梅林が有り、「杉田梅林」として有名だった。
戦国時代には笹下は杉田郷の一部だった。
その梅林を見学に来たのか、滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動し、以後、寺の山号を「梅花山」と名乗らせた歴史が有る。
江戸時代には笹下城址梅花山成就院や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、明治には皇族も度々観梅に来た程だった。
しかし、その梅林を含む境内地は戦後の宗教政策で接収され、不見識な横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった。
【昔の宗旨と寺域について】現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に普通の規模の寺院だが、中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有る。
法相宗は古い宗派で奈良時代~平安時代初期に全盛期の広がりを見せた宗派で、その後は天台宗や真言宗が流行する。
鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に浄土真宗に改宗している。
江戸時代の風土記稿の記録を見るに、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった。
しかし檀家総代の家に無住職だった時代が有ると伝わっている。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有った。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていた。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然だろう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いていたのだろう。
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていない。
なので北条家に憚り大々的な間宮家からの支援無くなった時期も無住職の時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのだろう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせらず存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた可能性は残る。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然だろう。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来る。
以後、江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然だろう。
【関係した人物と記録に残る歴史】主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っている。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公、玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公、滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した間宮綱信公を輩出し北条家臣団相模十四騎筆頭の武家とされた。
北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てらえ一門から家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元等の名将を多数輩出した。
江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築した。
それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有る。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とのたまう学者がいるが仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語なのだが、それを知らない学者が山門焼失と言うのを“御寺の門が焼けた”と愚かにも紹介していたりする。
戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されている。
しかし山門は戦後も存在していたのが純然たる事実だ。
【間宮家の宗旨について】・浄土真宗先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。
・神道と修験道と真言宗間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。
祖先は近江源氏の氏神である敦実親王で延喜式内社他で近江源氏一族の氏神であり沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。
更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である弘明寺、安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺、江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
・曹洞宗間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。
又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。
尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来する。
子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に観音寺を菩提寺として支援している。
・日蓮宗江戸時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家菩提寺の杉田の妙法寺や江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。
なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が解る。
名前 |
成就院 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-843-7116 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
うちの祖父母が眠っています。
ひ孫を初めて連れて行きました。
頂上のお墓だったから、たどり着くまで迷う迷う(笑)