千葉家ゆかりの臼居家菩提寺。
淨念寺の特徴
鎌倉郡三十三ヶ所観音霊場の18番に位置しています。
野庭の山あいにひっそりと佇む風格のあるお寺です。
臼居家菩提寺としての歴史が深く感じられます。
日野公園墓地の米陀石材店です。
埋葬やご法事でお世話になっております。
檀家でない方に対してのご依頼でも、いつもご丁寧な対応で一生懸命読経してくださいます。
港南区に伝わる即身仏「玄入坊」さんの祠が奥にひっそりとあります。
神奈川県の即身仏は、この玄入坊さんと横須賀の智回尼さんと、他にもまだまだいそうですね。
昔のお坊さんの中には、こういう徳の高い方がいたようです。
野庭の山あいの緑に囲まれ静寂の中でひっそりと風格のあるお寺です。
野庭の田園地帯にあります。
今日はお墓の掃除に来ました。
平安時代以来の武家、千葉家の分家である臼居家が開いた臼居家菩提寺。
その祖先は醍醐天皇の忠臣で平将門公の叔父、旧鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍を務めた平良文公に行き着く。
更に次代を下ると鎌倉御家人として有名な千葉常胤公祖父の千葉常兼公に行き着き、その子が臼井姓を名乗り、更に戦国時代に野庭に移住したのが臼居杢右衛門で以降臼居姓を名乗った。
臼居家は元は今の千葉県、下総国印旛郡の臼井城主で戦国時代に千葉家臣団の内紛により千葉胤富(たねとみ)公の重臣の原胤貞(たねさだ)公が臼井家の家政を乗っ取った。
その際に臼居家の祖先は原家と対立し臼井の地を離れた。
浄念寺周辺の臼居家の御先祖が小田原北条家に臣従し野庭に移住した臼居杢右衛門。
江戸時代は日本屈指の尼寺として有名だった北鎌倉の松岡御所こと松岡山東慶寺の寺領として開拓する事で野庭の地の開発権を臼居家が得て庄屋と成った。
その歴史から浄念寺一帯には臼居杢右衛門の一族が現在も多く居住し、それぞれの分家に住した土地由来の屋号が有る。
尚、浄念寺前の谷間は鎌倉幕府所縁の土地。
馬洗い川は北条政子が弘明寺参詣の折に馬に水を飲ませ水で洗ってやった小さな滝が有ったが、教育委員会が伝承地の保護を怠ったので河川改修により滝は消滅した。
背後の野庭団地は鎌倉時代初期に和田義盛公によって築城された野庭関城址だった。
和田義盛公は征夷大将軍の源頼朝公の存命中に初代の侍所別当(防衛大臣に相当)を務めた人物。
戦国時代も城塞として活用され、北条家によって重臣の石巻康保公や安藤良整公が城代を務めた。
昭和期に教育委員会が保護も調査も怠ったまま団地が建設されたので野庭関城址は現存しない。
但(ただ)し、本丸跡は野庭中央公園辺りと伝わる。
至って普通の寺。
御朱印頂きましたご住職と地域の歴史について色々とお話しさせて頂きました。
平安時代以来の武家、千葉家の分家である臼居家が開いた臼居家菩提寺。
その祖先は醍醐天皇の忠臣で平将門公の叔父、旧鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍を務めた平良文公に行き着く。
更に次代を下ると鎌倉御家人として有名な千葉常胤公祖父の千葉常兼公に行き着き、その子が臼井姓を名乗り、更に戦国時代に野庭に移住したのが臼居杢右衛門で以降臼居姓を名乗った。
臼居家は元は今の千葉県、下総国印旛郡の臼井城主で戦国時代に千葉家臣団の内紛により千葉胤富(たねとみ)公の重臣の原胤貞(たねさだ)公が臼井家の家政を乗っ取った。
その際に臼居家の祖先は原家と対立し臼井の地を離れた。
浄念寺周辺の臼居家の御先祖が小田原北条家に臣従し野庭に移住した臼居杢右衛門。
江戸時代は日本屈指の尼寺として有名だった北鎌倉の松岡御所こと松岡山東慶寺の寺領として開拓する事で野庭の地の開発権を臼居家が得て庄屋と成った。
その歴史から浄念寺一帯には臼居杢右衛門の一族が現在も多く居住し、それぞれの分家に住した土地由来の屋号が有る。
尚、浄念寺前の谷間は鎌倉幕府所縁の土地。
馬洗い川は北条政子が弘明寺参詣の折に馬に水を飲ませ水で洗ってやった小さな滝が有ったが、教育委員会が伝承地の保護を怠ったので河川改修により滝は消滅した。
背後の野庭団地は鎌倉時代初期に和田義盛公によって築城された野庭関城址だった。
和田義盛公は征夷大将軍の源頼朝公の存命中に初代の侍所別当(防衛大臣に相当)を務めた人物。
戦国時代も城塞として活用され、北条家によって重臣の石巻康保公や安藤良整公が城代を務めた。
昭和期に教育委員会が保護も調査も怠ったまま団地が建設されたので野庭関城址は現存しない。
但(ただ)し、本丸跡は野庭中央公園辺りと伝わる。
名前 |
淨念寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-842-7288 |
住所 |
〒234-0056 神奈川県横浜市港南区野庭町1843 浄念寺 |
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
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鎌倉郡三十三ヶ所観音霊場の18番。
地蔵の1つが「やぐら」に祀られているのは鎌倉らしさかもしれない。
霊園の最奥は野庭を開発し、当寺の開基である臼居氏で占められていた。
後年、再訪した際に霞堂が開かれていましたので参拝させて頂きました。