義朝の側室の常盤御前、そして子孫の源義経に縁の有る...
階段が少し急ですが上がりきると社がとても立派な神社です。
ご祭神は、大己貴神 おおなむちのかみ。
社も立派でこの辺りの神社の中でもパワースポットです。
拝殿の彫刻は江戸の名のある彫工の作と推定されます小高い山なので、ここからの景色も良き眺め。
川崎市多摩区菅エリアで一番大きな神社かと思う。
お正月限定の御朱印もいただけ、初詣で賑わいを見せる。
高台にあり、都心方面の眺望も得られる!
静かで心が落ち着く場所です🙂
いつもの散歩コースに含まれる神社。
階段を登るとお気に入りの見晴らしが伺えます。
脇に不発弾らしきものあります。
どんな由来があるのだろう。
多摩区菅地区の⛩️総鎮守⛩️にあたります、源平合戦後期💣の創設、社殿は高台に有るため道中は険しい階段😣を登っての参拝に成ります、社殿脇まで車🚐で行けますが駐車台数に制限有り🚘
高台に有り、眺めは良い。
身近なパワースポット!
登戸の稲荷社が兼務する神職不在の氏子神社。
氏子役員さんが御朱印を記帳して下さいます。
神社行事で授与所が開設された時だけですが、正月は三が日対応。
此処と八雲神社を菅氏子会が維持している。
八雲神社にも御朱印在り。
大國主命の別名:大己貴神を祀る。
各地に在る子之神社の社名の由来は、60日に一度巡ってくる【甲子:キノエネ】が縁日で、その日に祭祀を行っていたから。
大國様のお使いはネズミなので令和二年は大いに期待、甲子の日にお詣りすれば更に吉。
地元の氏神様。
初詣以外に祭等年に数回イベントがある。
奥の方に戦時中の弾?が飾ってあります。
急な階段を登った先にある神社。
結構眺めがいいです。
子年にゆかりのある神社ということで参拝子之神社は神奈川に3社しか無い?のだそうで拝殿横の御神木が印象的です。
高台なので見晴らしも素晴らしいです。
子年だからと言って、特別に何かあるようでは無いですが、三が日なのでお守りと御朱印を頂けました。
初詣で毎年来ています✨
川崎市の重要歴史記念物に指定されています。
近くにある薬師堂で毎年9月に行われる菅薬師の獅子舞は神奈川県の指定無形民俗文化財に指定されています。
10月7日(土)8日(日)に神社の御祭りが催されました。
稲田堤駅周辺もお神輿が担がれて、威勢の良いかけ声が夕方響いていました。
初詣や秋のお祭りの際は近所の方で賑わう地元の神社。
急な階段か、急な坂道を登ることになりますのでご注意。
でも、階段の上からの眺めはなかなか良いです。
社の正面の彫り物がすごいです。
御祭神、大国主命。
神社の気配風格が大国主命っぽい感じがします。
御由緒(神奈川県神社庁HPから転載)、当社の起源は定かではありませんが、当社は、鎌倉時代には小沢郷7ヵ村の総鎮守であったと伝えられ、江戸時代には管村の鎮守でした。
『子之神社』の社名は、明治10年(1877)頃からのもので、それ以前は根ノ上社・根之神社などと記載さてれいました。
江戸時代の延宝7年(1679)、管村の領主である旗本の中根正致(なかねまさむね)が、当社を管轄する法泉寺に田畑を寄進して社殿を再興し、その後享保13年(1728)には、村民の佐保田与市(さほだよいち)らが願主となって、本殿と拝殿を造営しました。
今の本殿は、この後に再建されたもので、その時期は、江戸時代の末期(19世紀の中頃)と推定されます。
本殿の造りは間口3.86尺の一間社流造、正面に千鳥破風、向拝に軒唐破風を付け、母屋の組物を三手先斗栱詰組(みてさきときょうつめぐみ)としています。
総けやき・しらき仕上げの建物で、木鼻や正面の桟唐戸および脇障子をはじめ、四面の壁面、組物などの小壁、向拝柱や繋虹梁などが、しらきの彫物で飾られ、幕末期の特徴をよく示しています。
このように壁面および細部を彫物装飾で埋め尽くした建物の事例は、神奈川県下の社寺建築では数少なく、貴重な建造物といえます。
彫物は、その精緻な彫り方からみて、江戸の名のある彫工の作と推定されます。
秋の散歩でまたま太鼓の音に引かれて行ってみたら、住宅地に今時珍しく屋台がびっしり出ていて坂を登ったとこに神社があった。
そこの境内のステージのおじいさん、おばあさんが楽しそうに唄って踊ってて平和でよかった。
名前 |
子之神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
044-944-2021 |
住所 |
|
評価 |
4.1 |
源為朝、その兄の源義朝、義朝の側室の常盤御前、そして子孫の源義経に縁の有る神社です。
保元の乱の「白河殿夜討ち」の際、源為朝が兄・源義朝に放った矢の鏃(やじり)を常盤御前が常に所持し、後に子孫の源義経に譲り与えたとか。
そして、その鏃(やじり)を義経がこの神社(の前身)に納め、後にそれを御神体とし、小沢郷七村の総鎮守としたらしいです。
子之神社の創建年は不明ながら鎌倉時代には小沢郷七村の総鎮守だった事から、鎌倉時代にはすでに存在していたと思われます。
戦国時代には兵火にて焼失しました。
1679年江戸時代初期には、旗本の中根正到という方が再興したらしいですね。
地味に良い神社です。
落ち着く雰囲気でした。