見られるのがスゴいと思いました❗お寺の住職の言葉が...
今日行きました静かで景観がよく湖が見えとくに富士山が見え感動しました。
榊原康政のお墓があるのは知っていましたが初めて行きました。
境内も綺麗で見応えもあります。
早合点男の真骨頂👀👀駅近と思い込んでいた寺は、往復13・4kmの城沼の畔にあった。
う〜ん!と考えるが行くしかあるまい。
沼周りのウォーキングロードをテクテク。
参道の先の山門は館林一の立派さであろう。
本堂を始めとして境内に至るまで、管理の行き届いた寺である。
素敵なお寺でした。
徳川家康とも縁のあるお寺らしく…家紋が!近隣はアゼリアモールなどあり、混雑してますが…お寺は静寂で幻想的でしたよ!駐車場も完備してるので…安全運転でお出掛け下さい!お寺の周辺に猫ちゃんも居ました。
(地域猫なのかな?)可愛い猫達でした。
虐めたり、さらに猫を捨てたりはしないで下さいね!お願いします。
徳川四天王の一人である榊原康政公の菩提寺です😌館林初代藩主の面影を訪ねて来ました🎵
2022年11月5日カイノキやドウダンツツジが真っ赤に染まり紅葉も色づき始めました。
今年はイチョウや欅もいい色になりました。
お散歩にぜひどうぞ。
コロナ禍で3回目の訪問で、書置きの御朱印を頂く事が出来ました!又ご住職の案内で礼拝所でもお参りさせて頂く事も出来ました!親切な対応有難う御座いました。
浄土宗。
本尊は、阿弥陀如来。
関東十八檀林。
東上州三十三観音霊場札所。
つつじの館林七福神(毘沙門天)札所。
目をみはる山門。
コロナ禍で3度目の訪問で書き置き御朱印頂きました。
住職さんのご厚意で礼拝所で参拝もさせて頂きました。
御朱印は4種類全て書き置き各¥500
徳川四天王で館林城城主だった、榊原康政のお墓があるお寺です。
境内は綺麗に整備されていて、1日3回鐘が館林市内に響きわたります。
桜とつつじが咲く頃に館林に来たら、ぜひ訪れて下さい。
確か関東十八檀林のお寺です😁徳川幕府の統制に組み込まれた田舎檀林ですよ😉
館林アゼリアモールの西隣のお寺です3/19日でヒガンザクラがもう3分咲きぐらいになっていましたソメイヨシノはまだでした寺内はとても広くきれいな寺でした アゼリアモールはよく行きますがこのお寺は今日初めて寄って見ました。
かつて、館林駅前にあったこのお寺。
駅前改修工事によりこの地に移ったとの事みたいです。
龍の井だけは館林に残り当時の面影遺す小さな庭園もあります。
もとはお寺があった場所。
手入れも綺麗に庭園の白い敷石が何とも言いようが無いくらいに華やかなに見える幻想的な風景。
城沼、アゼリアモール沿いにあるらしく何時もサイクリングで何度か通っているのですが気付かなかった?今度は行って写真に収めよう。
観光地?と勘違いをしてしまうほど立派で綺麗なお寺です。
木花もとても綺麗に整備されていて、心落ち着く空間です。
つつじの七福神巡り、毘沙門天を祀るお寺。
色紙800円御朱印200円です。
残念ですがご多忙のため御朱印は頂けませんでしたが見所が多くゆっくりお参りできました。
徳川四天王、榊原康正が眠るお寺です。
御朱印の種類も豊富ですし、応対してくれたお寺の方も親切にしてくださいました。
こちらには、徳川四天王として、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝とともに並び称された榊原康政のお墓があります。
康政は13歳の時、松平元康(のちの徳川家康)に仕え、三河一向一揆との戦いで初陣を飾り、武勲を上げて家康から「康」の一字を与えられました。
元服してからは旗本として、つねに家康の傍らにあり、何度も主君の命を救っています。
家康が武田信玄に挑戦し、さんざんな敗北となった三方ガ原の戦いでは、主君が城に逃げ戻るのを見届けてから、自身は城に入らず敗兵を集め、武田の陣営を夜襲。
逃げ惑う敵を蹴散らしてから、堂々と城へ帰ったといいます。
長篠の戦いでは、家康の本陣へ必死の突撃をかける内藤昌豊の軍勢に対し、本多忠勝とともに奮戦して、主君を守りきりました。
家康と秀吉が合間見えた長久手の戦いでは、豊臣秀次の軍勢を敗走させ、森長可、池田恒興を討ち取りました。
戦いののち、秀吉との和睦に当たっては家康の使者となりました。
つねづね康政は、秀吉が織田家を乗っ取ったと公言していた為、二人の会見は危惧されましたが…堂々として悪びれぬ康政を、かえって秀吉は気に入り、豊臣の姓を与えたといいます。
関ヶ原の合戦の後、家康は康政を水戸へ加増転封しようとしますが、康政は辞退します。
このとき康政は「老臣が過ぎた力を持つことは国の災いとなる」 と言い、また「水戸では主君に遠すぎる」と言って、家康に大きな感銘を与えました。
康政の陣営には、つねに「無」と記した旗が翻っていたそうです。
「無欲の人」であり、また「無名の人」であろうとした、忠義一徹の人物であったようです。
なお、康政の墓の傍らには、いまも近侍するように、家臣の南直道の墓が立っています。
大和の国に生まれた直道は、諸国を武者修行するうち、足を止めた新田金山で城主の由良成繁に認められ、仕官しました。
しかし由良氏が常陸へ移封された為、再び浪々の身となりました。
これを救ったのは、新たに館林城主となった榊原康政の家臣、伊藤久白でした。
俄に有力大名となった榊原康政は、広く有為な人材を求めていました。
同じ大和出身であった伊藤の推挙により、家臣に加えられた直道は、その名の通り剛直な人物であり、その性質を康政に愛されて、忽ちのうちに側近となりました。
慶長11年4月、腫れ物を患った康政は重態となりました。
翌月、康政が没すると、直義は城を出て、榊原家の菩提寺である善導寺に入りました。
そして、亡君の柩が到着しするのを見届け、割腹して殉死しました。
このとき、直義に引導を渡したのは住職であった幡随意上人。
江戸の侠客、幡随院長兵衛の実兄であったと言われているそうです(^_^ゞ
門がとても立派だと思い、見られるのがスゴいと思いました❗お寺の住職の言葉が柔らかく聞こえました❗
榊原康政のお墓と水琴窟の有名なお寺と聞きお参りしました。
毘沙門天。
徳川四天王の一人、館林城主でもあった榊原康政のお墓があります。
境内はとてもキレイで立派です。
私が伺った9月中旬は彼岸花がとてもキレイでした。
御朱印は9時~16時で、書き置きが数種類あります。
お寺の方もとても親切で、物腰やわらかな口調でお話して下さいました。
無料駐車場も広いです。
館林では歴史のある由緒のある御寺ではないでしようか、。
水琴窟がとても良い音をだしていて幻想的でした。
とっても感じが良い対応のお寺です。
境内も綺麗でとっても雰囲気あります。
榊原康政墓所。
天正18年(1590)家康の関東に移封とともに上野館林10万石に入封。
慶長11年(1606)館林で死去。
享年59才。
訃報を聞いた本多忠勝は館林に駆けつけ号泣したと言われる。
康政の長男と三男のお墓も並ぶ。
名前 |
善導寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0276-72-1259 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
終南山見松院善導寺といい浄土宗のお寺になります。
御本尊は阿弥陀如来です。
元明天皇和銅元年(708年)に東国巡錫中の行基菩薩が上州館林を訪れ小さな草庵を結んだのが始まりとされ、当初は「行基寺」と称していたと伝わります。
鎌倉時代後期の建治二年(1276年)に寂恵良曉上人(白旗流の祖)が一向専修の道場として中興開山し終南山見性院善導寺と寺号を改めています。
天正十八年(1590年)に徳川四天王の一人であった、館林城城主榊原康政公が谷越の地に榊原家の菩提寺として諸堂を建立しました。
元和元年(1615年)に徳川家康公が定めた浄土宗の学問所である関東十八檀林の一つとなった、正和元年(1644年)榊原家第三代目の榊原忠次公が奥州白河に転封するにあたり徳川幕府第三代将軍徳川家光公から供田百石と諸役免除の御朱印も賜って寺運が栄えた。
平成二年(1990年)になり館林駅前広場整備事業のため駅前から現在地に移転した、善導寺の境内には館林城城主であった初代榊原康政公や二代榊原康勝公その母花房氏の墓があります。