館林城の玄関口、歴史が息づく。
粟嶋神社の特徴
利根川の左岸に位置する、歴史深い神社です。
江戸時代の川俣宿との関係があり、訪問者を惹きつけます。
奈良時代からのエミシ対策の歴史が色濃く残っています。
こちらの神社の御祭神や由緒は分かりませんでした。
参考淡島信仰が全国各地に広がりを見せるのは、江戸時代「淡島願人」と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、その神徳を説いて全国を行脚してからと言われますので、その頃にこちらに伝達されたのかも知れません。
和歌山市加太に鎮座する淡嶋神社総本社では、御祭神は少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)です。
淡嶋神社総本社に伝わる社伝では、神功皇后が三韓出兵からの帰途、瀬戸内海で激しい嵐に遭った時、神に祈りを捧げると、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げがあり、その通りに船を進めると加太の対岸の友ヶ島に着きました。
神功皇后はその島に祀られていた神に宝物を供え、その後、神功皇后の孫である仁徳天皇がこの地を訪れた際、対岸の加太に社を移し、社殿を建立した、とあります。
他に、淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てた、とする伝承もあり、婦人病、安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となっています。
明治三十四年建立の子だくさんの狛犬さんが淡島神のご神徳を表しているように感じられます。
(サイト「神社探訪 狛犬見聞録」及び「Wik」より)
長く伸びた松の木が折れそうでこわい。
奈良時代から鎌倉時代にかけたエミシ対策の、東山道、坂上田村麻呂から藤原一族や藤原秀郷、鎌倉時代の幕府崩壊のキッカケにもなった東北の領地争いのほか、西は防人の兵士を送り出してきました。
摂社に祀られた猿田彦大神はそうした九州沿岸から東北への少なくて3年、屯田兵として原地に移住して国を拓く人々の道々の安全と開拓による共に平穏に暮らせる御世実現の祈りと期待を現しています。
岩手県滝沢市には坂上田村麻呂伝承も有りなんらかの因縁を感じることができるように考えます。
さらに奉納された近代からの絵馬額は邑楽館林地域からの出陣兵の無事と戦勝を祈る歴史であり、いつの世にも変わらぬ避けることが出来なかった悔やみにも想いを馳せずにはいきませんでした。
群馬県に入ってすぐ。
名前 |
粟嶋神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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利根川の左岸、かつて江戸時代に川俣宿として栄た、館林城への玄関口でした。
利根川の堤の直ぐ左手に、杉林の杜が今も広がります。
鳥居をくぐり、長い参道を進むと正目に歴史感じさせる素朴な神殿が、右手に大きな古木の赤松の木 も、川俣宿の入口として栄た当時の姿が偲ばれます。