障害福祉課 の職員で メガネを掛けた 細身のあごマ...
いろいろな手続・相談事で訪問の機会が、けっこう何度もあります。
振興局に比べると、本庁舎の施設自体は古さを感じる。
赴きがあって良いと言う方もいるとは思うが、室蘭市の顔である施設なので、立て直した方が良いと思います。
昼なお暗い庁舎 ここで働く職員は夏暑く冬寒いだろうなあ。
だれか改築費を室蘭市に寄付してやって下さい。
昭和感たっぷりの内部、初めて訪れるなら、行きたい場所の行き方、中の人に聞きましよう!
すごく優しく対応してくれてありがとうございます!!
住宅課に市営アパートの退去届けを出してきました。
対応も良く優しく説明をしてくれましたよ!市役所も古くなり照明も暗いですね!
職員の皆様お仕事お疲れ様です。
市民のために宜しくお願いします。
仕事で来ています!
市役所以外の話 冬場は西風の強い処だよ。
小樽と違い、人間がギスギスしているような感じを受けたが、あんまり良い印象はない❗
建物古くて雨漏りするし、換気は悪くて夏は暑すぎ。汗だくの職員さん仕事にならないだろうに‥。せめてクーラーの設置考えてはどーなの?
もー少し改築工事して欲しいですねー。
昔から有る施設なので、老朽化も甚だしく、新庁舎の建設が待たれる。
節約節約で、薄暗い庁舎は、丁寧に使われて居る感じがします。
福祉科は丁寧な対応してくれました。
ガンバレ室蘭。
合併で大きくなるな、行政管内広くなってもろくな事はない。
街を良くしたい焦る気持ちは解るが、どちらにせよ、情緒ある街には適わない。
室蘭は情緒があり何か古くさい下町ぽい所がある。
どの道、日胆は室蘭。
ここの役人の無能さで、室蘭は衰退の一途を辿っています。
設備がかなり古いんです移転しないのかな?
日本六大工場夜景⇒室蘭市/川崎市/四日市市/尼崎市/周南市/北九州市キャラクターくじらん⇒目にも眩しいマリンブルーと豊満なボディがチャームポイントだよ!頭から出ているのは潮であって噴水じゃないよ!ましてや、何かが刺さっているわけでもないよ!めんばる君⇒「室蘭カレーラーメン会」のマスコットキャラクター。
名前にはメンバー/頑張る/ほおばる/めんこいという意味が込められている蘭太くん⇒室蘭きのこの会のPRキャラクター📖室蘭港室蘭に和人が住み着いたのは1600年頃の慶長年間にアイヌとの商取引のために松前藩が「エトモ場所」を設置したことによる。
松前藩は蝦夷地を数十場所に分割して主な家臣に知行地(支配地)として分け与えた。
室蘭地方は総称して「モロラン場所」と呼ばれていた。
室蘭港は内浦湾(噴火湾)東端に位置しており、三方を丘陵地に囲まれた天然の良港。
港湾全体の面積は1,400haで国内5位、岸壁数は北海道内最多となる109バースを有する。
1872(明治5)年の開港以来、石炭積出・製鉄・石油精製等を中心とした臨海工業港及び後背地の流通拠点港として北海道工業地域の発展を支えた。
今後は環境事業(静脈物流)や防災拠点港としての機能も期待される📖近藤重蔵と絵鞆1793(寛政4)年、ロシア船エカテリナ号(ラックスマン)の根室来航(翌年箱館入港の途中、絵鞆に入港)とプロビデンス号の絵鞆来航よって、幕府は、北辺警備の重要性をさとり、蝦夷地経営にのり出すため、1798(寛政10)年、大規模な調査隊を蝦夷地に派遣した。
一行は勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他総勢180余人の多気にのぼり、5月に福山に到着、蝦夷地をくまなく調査して11月半ばに江戸へ帰った。
一行のうち近藤重蔵は、単独で千島、択捉にまで渡り、調査を行っての帰り、シコツ、鵡川まで足を伸ばした後、10月27日絵鞆に入り、そのまま絵鞆で年を越した。
絵鞆で越年した重蔵の様子は分かっていないが、従者の木村謙次(俗称下野源助)の『酔古日札』によると、重蔵は煎海鼠(いりこ)を三十ほど煮て一度に食べたが、なお物足りぬ顔つきだったと、その健啖ぶりを語っている。
重蔵は、1月8日に薄に移り、いったん江戸へ帰ったあとまた蝦夷入りをした。
江戸に帰った久蔵らは「松前藩に北辺を守る能力がない」と報告したため、重臣らが評議を重ねたすえ蝦夷地の経営は幕府みずから行うことにきめ、1799(寛政11)年、蝦夷地を直轄することになった📖プロビデンス号1796(寛政8)年、イギリスのプロビデンス号(ブロートン船長・乗組員110名)が虻田に来航、薪と水の補給。
室蘭白鳥湾で測錘をおろし,水深を測量した。
この年が、室蘭港開港の年とされている。
蝦夷・樺太あたりから,ベーリング海峡周辺までの北太平洋は16世紀以来の「テラ・インコグニタ(未知の土地)」として,世界中の探究心旺盛なひとびとの注目の的だった📖北海道空襲1945(昭和20)年7月10日、米機動部隊は関東地区を攻撃した後北上し、7月14日東北、北海道を空襲。
攻撃は殆ど奇襲に近かった。
室蘭地区では午前7時30分頃から、室蘭港上空に侵入した艦載機約40機(白老監視哨報告94機)は、港内の海防艦2隻、汽船4隻、機帆船5隻、電信浜沖を航行中の大型汽船3隻を撃沈させ、市街地中心部を機銃掃射し洋上の母艦に帰投。
米空母「シャングリラ」「ヨークタウン」の資料には500ポンド爆弾を投下とある。
陸上では函館船梁(ドック)室蘭造船所で岸壁にけい留され、修理中の戦時標準貨物船「永歴丸」(6,850t)は真二つに裂け座礁、構内の倉庫、工場に4発直撃し、仕上機械工場は鉄骨の枠のみ残った。
室蘭市民頼みの室蘭防衛軍は、艦船や市内ビル屋上、機帆船からの機銃による対空砲火は熾烈であったが、丘陵地区の防衛陣地は沈黙、室蘭飛行場からは1機も飛び立たなかった。
この日の人的被害は死者12人負傷7人であった📖室蘭飛行場(八丁平飛行場)1935(昭和10)年、現・高平町市有地に延長300m、幅11.5mの滑走路を造成していたが、地ならしのままであった。
1943(昭和18)年、陸軍は室蘭防衛のため拡張工事を始めた。
軍人だけでは労力不足のため、小学校高等科生、中学生、女学生、市民の勤労奉仕が頼りであった。
滑走路は長さ550m、幅20mに拡張。
人力による造成は、町内会は毎日、男女を問わず強制的に割り当てられた。
同年、飛行第63戦隊の「九七戦闘機」の一部が一時駐屯したが転戦.。
その後、第一飛行師団、第20飛行団に所属する飛行第54戦隊の「一式戦闘機2・3型」いわゆる「隼戦闘隊」は丘珠に主力をおき、室蘭飛行場には分遣隊、即ち第二中隊が防衛の任に当たっていた。
尾翼には折鶴のマークがついていたので、折鶴部隊と呼ばれた。
この滑走路は最初板張りで飛行機が飛び上がりパイロット泣かせであった。
後に芝生となる。
終戦時には「九七式戦闘機」が3機(うち2機は故障)、軍用トラック約100台、航空ガソリンドラム缶が残存していた。
7月14日早朝米機動部隊の迎撃態勢をとるため、羊蹄山上空4、000 Mの位置に集合する予定であったが丘珠の司令部からの命令で出撃中止。
搭乗員は、近くの壕に退避中、1機が被弾破壊された📖室蘭艦砲射撃1945(昭和20)年7月15日、アメリカ艦隊は第34任務部隊から第34.8.2任務隊(司令官:オスカー・C・バジャー少将)を分遣し、室蘭に対して艦砲射撃を加えた。
「アイオア」「ミズーリ」「ウイスコンシン」戦艦3隻を中心に巡洋艦2隻、駆逐艦9隻からなる米海軍機動部隊は、朝室蘭沖28km前後の海上に現れた。
目標は、日本製鋼所室蘭製作所と日鉄輪西製鉄所(現新日鉄)で戦艦から攻撃した砲弾は860発。
16インチ砲弾(高さ170㎝・重量1225kg)は9時36分から10時30分まで約1時間にわたり室蘭の両工場のみか、周辺の御前水・御崎・輪西・中島町の市街地や社宅を襲った。
米国戦略爆撃調査団の報告によれば総数427人が死亡、109人が重軽傷とあるが(日鉄構内で75人、日鋼構内では14人の死亡者)、犠牲者の大部分は一般市民であった。
日鋼では被害を最小限にとどめるため前もって用意していた油に火をつけ、煙幕を張った。
上空を飛んでいた偵察機と戦艦の交信記録には「日鋼は全滅の模様」とある。
そのあと日鉄の攻撃に移った。
各工場のスレート製の屋根や側板が粉々に吹き飛ばされ、日鉄で作製した鉄製防空壕の中に砲弾の破片が飛びこみ、中に避難していた10数人の従業員は寸断され、目を覆う惨劇を現出した。
当時の室蘭市には日本陸軍の室蘭防衛隊が置かれて室蘭臨時要塞を建設中であったが、艦砲射撃を防止することはできなかった。
室蘭防衛隊隷下の第8独立警備隊は15cmカノン砲などの重砲も有しており、港湾に接近する艦艇への抑止力として期待されていたが、艦隊は港口とは向きが異なる南東(登別方面沖)方向からの遠距離射撃を行っており無力であった。
名前 |
室蘭市役所 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0143-22-1111 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金] 8:45~17:15 [土日] 定休日 |
関連サイト | |
評価 |
2.9 |
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