もともとここは古墳だったようですね。
もともとここは古墳だったようですね。
社務所は常駐ではありません。
なので、お守りや御朱印など、ご用のあるかたはこちらへとある電話番号にかける形式のようです。
お正月三が日には社務所が開き、巫女さんがお守り販売の窓口に立ちます。
静かな場所になります古墳の山にあるステキな神社さんです鳥居も階段もステキでしたm(__)m御朱印も頂きました^_^とても親切にしてくださいましたm(__)m
自家用車バイク等で参拝する時は南側からのアプローチで東側から境内に向かう参道途中の両脇に駐車場用意してくれています(添付画像な所 区画線のトラロープも張って有ります)GoogleMapの航空写真から見える北側や西側の駐車スペースな所は月極の様な個人名入った駐車場なので無闇に停めず上記の場所へ駐めましょう。
蓮神社(はすじんじゃ)御祭神 櫛御気野命 豊城入彦命配神 菅原道真公 八坂刀売命 健御名方命 火雷命 建速素盞鳴命 大山祇命蓮神社 伊勢崎佐波の神社誌由緒当社の境内地である権現山は、その昔山頂に熊野権現が祀られていたことから「八寸(蓮)(はちす)の権現山」と呼ばれ、第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国鎮定後この地において崩御せられ、その御陵であると言い伝えられている。
『殖蓮村郷土誌(明治四十三年刊行)』によれば、「東上州八寸村ノ若一王子大権現ハ元亨元年(1321)、熊野権現ノ臣下尾組ノ中将兼房ト云ウ者、此ノ山ニ勧請申ス」と記されており、古くからこの地が熊野信仰の場であったと考えられる。
現在の社殿は、領主の渡辺孫三郎富義が若一王子大権現の本地として奉納した大日如来の厨子の表書きより、東山天皇の御代の貞享五年(1688)に建築されたものとされている。
その後、明治七年に村社に列せられると共に、それまでの若一王子神社から熊野神社に改称し、八寸村の総鎮守社となった。
さらに、明治四十一年には、字長溝の無格社菅原神社、字宿裏の無格社熊野神社、字諏訪台の無格社下諏訪神社、字小斎の無格社上諏訪神社、字上サの無格社火雷神社、字八坂の無格社八坂神社、字権現の無格社山神社の七社を合祀し、蓮神社と改称し現在に至っている。
蓮神社社殿改築記念碑蓮神社が鎮座する権現山は古くから崇神天皇の皇子豊城入彦命の墓という言い伝えがあり、これが豊城町の名の基になっている。
蓮神社の歴史は、鎌倉時代末一三二一年元亨元年辛酉、若一王子大権現を熊野権現の臣下、天台宗の修験者と考えられる尾組の中将兼房によって勧請されたことに始まる。
また山頂にある市重要文化財の多宝塔は南北朝期のものと推定され、熊野信仰の普及を目的に修験者が供養塔として建立したものか、熊野権現を勧請した時期とほぼ同時代であることから、当時熊野信仰の霊場として、地域の信仰を集めていたものと思われる。
権現山という名称もこれに由来している。
伊勢崎市指定重要文化財 権現山遺跡昭和二十五年、丘陵部の南面が市営住宅建設のために切り崩され、この時に相沢忠洋氏によって崖面の三地点から約四万年前の石器(敲打器)が採集され、権現山石器文化と称される文化層が確認されました。
また、丘陵の中腹から麓にかけて直径二○メートル前後の円墳が三○基程築かれて権現山古墳群を形成しています。
この中の四基は昭和四十五年に発掘調査が実施され、主体部である横穴式石室が確認されました。
古墳は出土遺物などから六世紀頃の築造と考えられています。
伊勢崎市指定重要文化財 八寸権現山の宝塔この宝塔は古くから権現山の頂上に所在するもので、粕川流域に多く分布する赤城塔と呼ばれ、総高は二二二センチメートル、形態は相輪・屋蓋・塔身・基礎から成っています。
無銘ですが、軒の反り具合や胴部の輪郭などに古さが認められ、全体の特徴から南北朝時代(一四世紀後半)の造立と考えられます。
埴輪翳類出土之碑権現山の山林中には、今からおおよそ千四百年前ころの古墳時代に築造された、大小百二十基に及ぶ古墳が散在し群集墳を形成していた。
発掘作業の途次に人骨片をはじめ、勾玉、管玉、金環、直刀の土塊など、副葬品も数多く出土している。
なお同山頂には今も十四世紀ころの造立と推定される壷型の宝塔があって、往時は附近住民が宗教心を培うよりどころとした遺蹟でもあった。
小山の頂上付近に立っている。
宮司さんは滞在していなかったが連絡先の書いた看板があるため御朱印やお守りも戴けるようです。
駐車場が北から登った位置に2,3台しかおけるスペースがないので休日には置く場所に困るかもしれません。
名前 |
蓮神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0270-26-0433 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
御朱印その他は少し南の方にある飯福神社で兼掌しています。
飯福神社の社務所に御朱印あります。