公民館の中に神社があるとはなかなかないケースです。
公民館の中に神社があるとはなかなかないケースです。
神社の中に公園があったり、お寺の中に保育所や幼稚園があったりするケースはありがちですが、神社が公民館の中にあるようなケースは聞いたことがありませんでした。
御祭神 大日孁命(天照大神)放光寺・放光明神跡放光神社は、山上碑にある放光寺が、ここ佐野の地であるとして古くから祀られてきました。
放光寺の名前がここから約2km南に位置する山上碑に記されています。
山上碑は、佐野三家の子孫である放光寺の僧侶長利が、隣接する古墳に葬られた母である黒売刀自のために刻んだ墓碑とされます。
碑文中の「三家」は、ヤマト政権が各地に於いた経営拠点の「屯倉」と解釈され、高崎の南部烏川西岸に跨って存在していたと見られます。
「佐野」は、屯倉の中心地(現地周辺)にあったと言われ、これらのことから、この地が放光寺の跡地であると伝えられて来ました。
一方、前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、山王廃寺の場所が長利の勤めていた放光寺と推定される説があります。
(境内案内板より)由緒明治維新に際し再興すといふ。
上野国神名帳群馬郡西部載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。
此処に放光庵と称する仏堂あり。
文禄中(1592~96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。
堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。
(「高崎市史」昭和二年発行より)社殿右側に、「史蹟 放光寺・放光明神址」と刻まれた石碑があります。
社殿は平成二十二年(2010)に建て替えられたものです。
境内は下佐野第一公民館の敷地ともなっており、公民館の左側の道路に面した角には「支那事変・大東亞戦 戦歿者墓石建立記念碑」が建っています。
「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。
しかし、昭和四十九年(1974)前橋市総社町の山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺が「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。
(ブログ「隠居の思ひつ記」より)
名前 |
放光神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-326-9482 |
住所 |
|
評価 |
3.4 |
こんな場所に?って思う場所に、ちょこんと存在します。
公民館の駐車場にある神社ってご利益有るのかな・・・。
なんて事、少ししか思ってませんよ神様💦罰当たりな私をお許し下さい💦