本瓦葺き、頂部に宝珠路盤をのせておいる。
その昔、八幡太郎源義家が東征の途上、この大類の地に差しかかったとき、急に乗馬が蹄を損し、一歩も進めなくなってしまいました。
困った義家公が、京都の清水観音を遥かに拝み祈念したところ、馬は一声嘶いて立ち上がり、たちまちに治ってしまったといいます。
喜んだ義家公は、この地に仮の堂宇を建てて馬頭観音を安置し、柳の木を植えて、再び奥羽に向けて進軍して行きました。
のちに源義国が金山城主となってより、代々源氏の尊崇を受け、新田義重によって壮麗な殿堂が造営されました。
徳川の世になってからも、井伊直政を始めとして、歴代の城主に手厚く保護され、一度は焼失したものの、再建されて今日に至りました。
お堂に施された素晴らしい彫刻は、本町の田口藤五郎の作であり、堂内の一対の白馬は、江戸日本橋ねずみ屋の制作によるものです。
その昔は、草競馬も行われ、農耕馬を連れた多くの参詣人で賑わったそうです。
義家公の伝説はともかく、昔の人々は馬の無病息災を祈ったり、亡くなれば供養したり、働き者の馬を大切にしたのですね(^_^)vなお、お堂の前には、本当に仲の良さそうな双体道祖神が並んでいます(*^^*)幕末、この柳原観音の別当は小園江田宮(おぞのえたみや)という人物でした。
彼は水戸派の学者でもあり、のちに「五万石騒動」といわれた農民運動の思想的バックボーンとなりました(^_^ゞ
本堂宇は、正面・奥行とも三間の三間堂という中世以来の仏堂建築様式屋根は、本瓦葺き、頂部に宝珠路盤をのせておいる。
堂正面の中央本柱から、約十尺前に向拝柱を建て、反り強い唐破風をのせ向拝としている。
建物は、みごとな彫刻で、特に龍の巻き付いた海老紅棟梁は、名作との記載。
大類歴史研究会調査 抜粋。
名前 |
柳原馬頭観音堂 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.7 |
屋根の反り、軒下や柱の彫刻、境内に散見する馬頭観音の石碑、その昔、近在の人たちに尊ばれ、栄えたであろう由緒が今も見える貴重な史跡。
荒れているけれど、深く拝礼する。