門が閉まってるので入れなかったです。
歴史ある立派なお寺です。
入口は住宅街の中の路地にあります。
朝早いと入れません。
家康の孫、秀忠の弟、駿河殿忠長が自刃したお寺。
悪行が過ぎましたものね。
歴史的に貴重な駿河大納言の墓所があります。
参道を通行しただけ。
初めて参拝に来ました♪なんか幼稚園も運営してるみたいでした。
門が閉まってて、開けて入るのが緊張して入りずらかったけどなんとか入って玄関から入って御朱印を頂きました(^o^)雨降りで写メが撮りずらくて大変でした。
仏閣はちょっと小さかった感じでした♪
三代将軍となった徳川家光公に敗れた駿河大納言徳川忠長公がここに眠っていることでイメージが定着してしまいました。
高崎城内で幽閉されて自害に追い込まれたという伝説が残っているからなのです。
時代劇の「長七郎江戸日記」の冒頭の語り部分でも触れられています。
こちらには、徳川忠長公の墓所があります。
駿河大納言忠長は、徳川家光の弟でしたが、兄に勝って優れた人物であった為、父の秀忠は自分の跡を継がせようと考えていたといいます。
しかし、駿府の大御所である家康は許さず、長男の家光を三代将軍とせよと命じました。
忠長は駿府五十五万石の城主となりましたが、秀忠が亡くなると、家光は忠長に乱行ありとして、高崎城に幽閉。
さらに追い打ちをかけるように、切腹を命じ、忠長は二十九才の若さで自刃して果てました。
一説には高崎城を脱出して、この大信寺まで逃れた末、追っ手に包囲され、立ったまま腹を切ったとも伝えられています。
死骸は大信寺に下げ渡され、その墓石は将軍家の後継者争いの悲劇を伝えています。
本当に乱行があったのか、家光が自分よりも優秀な弟を許せなかったのか、真実は歴史のなかに埋もれてしまっています(;_;)/~~~チョッと面白い話としては、その忠長の嫡子が松平長七郎であったことです。
彼は父に似て文武に優れた好男子でありながら、父を死に追いやった幕府には仕えようとはせず、諸大名もまた家光に遠慮して、召し抱えようとはしませんでした。
その為、長七郎は自由な身で誰に遠慮をすることもなく、気ままに旅をして歩いていたようです。
立ち寄れば大名達も金を用立てたので、暮らしに困るようなこともなく、ドラマの里見浩太朗のようにゾロリとした贅沢な身なりをしていたかも知れません。
また、なかなかの暴れ者であった為、旅先で様々なエピソードを残し、黄門さまのように、時代劇のヒーローとなったということです(*^^*)一度めに、この大信寺を訪ねたときは、門扉に鍵が懸かっていて入ることができませんでした。
そして二度め。
またしても鍵が懸かっていたので、外から写真だけを撮り、スゴスゴと帰ろうとしたら…ちょうど白髪のご婦人が出てきました。
意を決して事情を話すと「どうぞ」と言って鍵を開けて下さり、忠長公のお墓まで案内して下さいました。
とても上品な方で、ご住職の奥様だということでした。
終戦の前夜に高崎市も激しい空襲を受け、墓所は残りましたが、本堂を始めとしてお寺は一切を失ったこと。
そのあと、ご住職の懸命の努力により再建されたことなど、お話を聞かせていただきました。
駅の真ん前なので、開けておくと違法駐車をされたり、大変なようですね。
今回、お墓を見られたのは本当に幸運でした(^_^)vお礼を言って出ると、裏は怪しげな?飲み屋街。
やっぱり高崎は都会ですねぇ(^_^;)
三代将軍徳川家光の弟、駿河大納言徳川忠長が眠る墓所はこちらにあります。
祖父家康、また両親を巻き込んでの将軍後継者争い。
その結果、若い忠長が自刃に追い込まれてしまったことなどの悲劇がここで再確認できます。
3代将軍徳川家光と争った弟、忠長。
この大信寺の墓地に墓はあります。
大納言にふさわしい立派なものです。
駿河大納言忠長公のお墓があります。
住職さんがとても親切な方でした。
名前 |
大信寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-322-6069 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 9:00~17:00 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
平日は幼稚園があるため、門が閉まってるので入れなかったです。