(じゃけつざんこふん)と読みます。
古墳の直ぐ北には公民館、西には資料館が有ります。
資料館は無料ですが、展示はかなり充実しています。
(じゃけつざんこふん)と読みます。
これも国指定史跡の方墳です。
7世紀後半の古墳終末期の築造だそう。
歴史の教科書的には大化の改新以後の飛鳥時代で壬申の乱の頃でしょうか。
もうちょっとすると奈良時代ですね。
サイズは一辺44m、高さ5mと、時代が下るにつれてコンパクトになってきていますね。
尚、石室は開放されており、いつでも誰でも入れます。
隣の総社歴史資料館の二階からは全体が良く見えてお薦めです。
しかし、なぜここが国指定史跡なのか、明確な根拠(というか、特徴)が欲しいです。
なんせ全国に古墳は16万基(基という単位だそう)もあるのですから、全部を史跡指定してたら大変だー。
総社古墳群の最末期の古墳。
石室に入ることが出来る。
隣の前橋市総社歴史資料館に古墳墳丘と石室の模型がてんじされている。
羨道がない古墳。
石室内に入ることができる。
総社公民館の敷地の中にあります。
古墳としてはかなり新しい時代のものです。
仏教が伝来して地方に広まる直線の8世紀くらいものもの。
大きさはそれほどでもありません。
石室は自由に入れますが、他の古墳に比べるととても広く、天井が高いのに驚きます。
高さが180センチくらいあるので、よほどの長身でなければ中で背を伸ばせます。
まずそれがびっくりしますね。
中でも内部の石室の石がとにかく大きく、平らで、ほとんど隙間がありません。
壁に塗ってあった漆喰の後もうっすらと伺うことも出来、そんな古い時代に作られたものとは思えない素晴らしい技術力が忍ばれます。
山の上碑のある山上古墳と同じ時代のものらしく、どちらも大きな一枚の岩をきっちり組み合わせて作られているのを観察するだけでも楽しいものです。
石室には自由に入室できます。
石の加工技術に驚きます。
この古墳は荒田別王(あらたわけおう)の息子の田道の墓と言われているそうです。
田道は蝦夷征伐の命を受けて、東国に遠征して来ましたが、戦いの最中に討死したため、総社の地に葬られました。
その後、蝦夷が総社へ迫って来た時、この墳墓から大蛇が現れ、口から毒気を吐いて追い散らしました。
このことから、田道の墓を蛇穴と呼ぶようになったのだそうです(*^^*)
石室内に自由に入れます。
直ぐ横にある資料館で、ます予習がオススメです。
総社歴史資料館と同じ敷地なので合わせて見学出来ます。
宝塔山古墳、蛇穴山古墳などから構成される、5世紀後半から7世紀の古墳群で、蛇穴山古墳は、群馬県で最後に造られた大型方墳です。
古墳時代から飛鳥時代に入ると、古墳文化に仏教文化が取り入れられるようになり、共存している様子が窺われます。
東国で最古級の寺院である山王廃寺と、石材加工技術の共通点が見られ、総社古墳群を造った豪族が山王廃寺を建立したと考えられています。
名前 |
蛇穴山古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
古墳時代最後の8世紀の地域のご先祖様の墳墓です。
切石積みの精度はたいした物だと思いますね🙆