群馬縣管下上野國片岡郡乗附村字宮尾根 無格社 家隆神社御祭神 藤原家隆卿由緒勧請年月不詳、家隆卿ハ壬生中納言光隆卿ノ二子ニシテ哥名世ニ高シ、位従二位ニ至リ官民部卿ヲ経テ、嘉禎三年四月年八十シテ薨セラル、當地ニ祭レルハ何ノ謂ヲ不知ト雖モ隣郡甘楽郡高尾村ノ碑ニ仁治四年云々壬生忠家同安文等之名アルヲ思ヘハ、此辺ニ住メル同氏ノ人々創立セシモノナルベシ境内末社 一社 厳島社御祭神 市杵島姫命由緒不詳、明治十年七月中村内字三本木ヨリ當社境内ヘ移轉ス(「上野国神社明細帳」より抜粋)高崎市下佐野町に「定家神社」があります。
定家神社は鎌倉時代の歌人である藤原定家を御祭神とする神社ですが、「家隆神社」は、藤原定家と同時代の歌人である藤原家隆が御祭神です。
藤原定家と藤原家隆の関連は、歌の橋で定家と家隆が歌を詠みあったとの言い伝えがあります。
たかさき町知るべ歌川町は烏川の左岸際で、市街地の北やや西寄りにある町で、北は上和田町、西は並榎町と対岸の下豊岡町、南から東は常磐町、東は赤坂町となっています。
この町は、明治四年(1872)赤坂村から独立してできた町で、町名は、常磐町との境界を流れる用水に、「歌の橋」という名の橋が架けられており、この橋にまつわる伝説から「歌川町」の名がつけられたものです。
その伝説は、むかし、藤原定家と藤原家隆が「歌の橋」で出会い、ここで互いに歌を詠み合いました。
そして定家は烏川の左岸沿いに佐野の方へ向い、家隆は石の船に乗って烏川を渡り、乗附に至ったといいます。
下佐野には「定家神社」があり、乗附には「家隆神社」と「お舟石」があります。
(「高崎新聞ウェブニュース」より)
名前 |
家隆神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-322-2006 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
こちらは高崎市乗附町(のつけまち)にあります。
「乗附」とは、野の果てを意味するアイヌ語によるという説あり。
また藤原家隆が、藤原定家と橋の上で歌を詠み合ったあと、烏川を渡り、対岸に乗り付けたから…という説あり。
このとき、家隆が乗ったという石の舟が、いまでもあります。
ただ、この石は古墳時代の石棺らしいですが…(^_^;)真偽はともかく、雅な言い伝えですね(*^^*)こちらには、かつて和田氏に属して乗附氏を名乗った豪族がおり、現在も子孫に当たる乗附姓の方々がおられるそうです(^_^ゞ