大和朝廷が 形作られていく中で無視できない勢力が ...
若伊香保神社(わかいかほじんじゃ)。
国史見在社、上野国五宮で、旧社格は村社。
資料によると、上野国三宮・伊香保神社は、元々当地に鎮座したと推測する説もあり、同社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社になるともいわれる(伊香保神社の元宮)。
とあり、延喜式神名帳に記載がない式外社であり、『日本三代実録』に記載がある、国史見在社の事情はこの辺にある様です。
国史見在社で、上野国五宮。
旧社格は村社。
伊香保神社及び三宮神社の若宮(元宮)と目される。
なぜか安産の石がある。
歴史のある神社ですが残念な事に御朱印はありません。
社殿はこじんまりしている神社です。
はるか 古代の東国における上毛野国、大和朝廷が 形作られていく中で無視できない勢力が あったこと。
遠き御祖の 標べを この地に。
一千年を超え、今を 生きる末裔たちに 御神威 光明あれ。
2018/9/28参拝。
家の近くで 歴史のある神社です。
古代、総社に国府が置かれた頃、この群馬の地には三人の豪族が、それぞれに勢力を張っていたそうです。
赤城神社をまつる上毛野君(かみつけのきみ)、貫前神社をまつる石上部君(いそのかみべのきみ)、そして伊香保神社をまつる有馬君(ありまのきみ)です。
そのなかで有馬君は、馬の成育を得意としていたことから、そう呼ばれたと言われています。
良い馬を生産することで、財力と権力を手にしていました。
榛名山の大噴火の後、山麓の有馬君の土地は大きな被害を受けたことから、南へ勢力を伸ばして進出し、現在も残る宝塔山古墳や蛇穴山古墳、山王廃寺などを築いたと考えられているそうです。
(*^^*)関越道のパーキングエリアがある駒寄という地名も、有馬君に関係があるかも知れません(^_^)v
良い神社ですが、階段が急です。
(真ん中に手すりがあります)
上野国三宮の元宮である上野国五宮、上野国九宮の中で唯一の式外社。
近代社格では村社。
御祭神は大名牟遅神と少彦名神。
伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保、上野国三宮)と同一神名を有することから、伊香保神社と同じく豪族の有馬氏(阿利真公)により奉斎されたと見られている。
また、伊香保神社は元々当地に鎮座したと推測する説もあり、伊香保神社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが当社になるともいわれる。
当社は伊香保神社の元宮となる。
国史では、「若伊賀保神」の神階が貞観5年(863年)に従五位下、元慶3年(879年)に従五位上、元慶4年(880年)に正五位上に昇叙された旨の記載が見える。
しかし『延喜式』神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。
『上野国神名帳』では、総社本(総社神社所蔵・御神体)において鎮守十社のうちに「正一位若伊賀保大明神」と見えるほか、一宮本(一之宮貫前神社所蔵)・群書類従本(三夜沢赤城神社旧社家伝来)において群馬東郡または群馬郡のうちに「従四位上 若伊賀保(若伊香保)大明神」と記されている。
南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に若伊香保神社の記述が見えるが、その中で当社は上野国の五宮であるとされている。
上野国九宮までのうち、当社は唯一の式外社になる。
(神社と古事記サイトより)
名前 |
若伊香保神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0279-24-0122 |
住所 |
|
評価 |
3.7 |
山の中腹に東を向いて鎮座しています。
関東平野を見おろしています。
風格があります。