本多康重公が上野国白井2万石で入封。
26日にお袋の1年忌を行いましたが、いつも住職に良くしてもらい感謝してます。
住職は、女性ですが。
白井藩本多家の菩提寺。
が、すぐに白井藩が廃絶となり旗本領となった。
上州は大藩が少なくて小さな旗本領が多く、国定忠治のような民間任侠が発展する要因ともなっている。
今日は、祖母の月命日で訪れました‼️
天正18年(1590年)、徳川家康公の関東移封に伴い、本多康重公が上野国白井2万石で入封。
その父の本多広孝公が岡崎にある本多豊後守家菩提寺の源空寺を白井の地に移した。
広孝公は慶長2年(1598年)に白井で死去し、妻の長寿院(東条松平義春の娘)と孫で白井領を継いだ本多紀貞公(康重公次男)とともに源空寺に葬られた。
なお、広孝公と長寿院の墓は、正徳5年(1715年)の広孝公百二十回忌の際に、広孝公5代孫で信濃飯山藩主・助芳公が建立したものです。
こちらには「源空寺の玄宅様」と呼ばれる墓石があります。
明治31年、もと高崎藩士であった吉原玄宅は、医術の心得があった為、この地で医師として開業しました。
当時は医師も少なかったので、訪れる患者も多く、玄宅は裕福に暮らしていました。
ところが、その為に玄宅は往診を頼まれて外に連れ出され、斧で滅多打ちにされ、殺害されてしまいました。
さらに家に取って返した犯人は、妻も手にかけたといいます。
この惨劇に同情した人々が墓に詣でるうち「墓石を欠いて煎じて飲めば、どんな病気も治る」と言われるようになりました。
いまでは墓石を欠くことはできませんが、代わりに線香の灰を持ち帰るようになったのだそうです(^_^ゞ
北側からも入れ、本堂の裏手から回り込めます。
浄土宗の寺です。
本多広孝の仏塔があります。
本多広孝は渥美半島の田原城主となり、徳川家康の右腕ともいうべき人でした。
隠居後に子・康重が白井城主になったのに伴って当地に入りました。
本多廣孝の創建で京都知恩院の直末寺です。
鐘楼は徳川宗家の菩提寺大樹寺の鐘楼を模したものです。
名前 |
源空寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0279-22-1703 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
梵鐘が市指定重要文化財に登録されています。