近世初頭には村が成立していたと考えられる。
恋ヶ窪村は、中世には鎌倉道が通る交通の要衝に位置しており、近世初頭には村が成立していたと考えられる。
恋ヶ窪村分水は村の農業用水の確保が目的であったが、その開削には、さんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地を一つ越えなければならず、当時トンネル工法ともいえる胎内掘はまだ技術的に確立されておらず、この段丘を通すために大規模に掘り込む必要があった。
分水の開削により、恋ヶ窪村は約3斗9升から8斗8升と倍以上の石高となり、次第に高低差を利用して水車経営をする農家など現れた。
分水跡は、明暦3年の開削から360年にあたる2,017年に市重要史跡に指定している、その後整備がされ胎内堀まで降りられる階段が出来たが安全対策のためか封鎖されており、せっかくの整備が活かされていない印象は拭いきれない…
昔は夜道を歩けない位怖かったですけど、物凄く良くなった。
西国分寺駅から600m程北へ行き府中街道のひと筋裏の街角に樹林帯がある。
樹林帯に沿う深い堀は柵で仕切られているが、樹間からチラチラと水が見える。
この堀は玉川上水が完成して間もない明暦3年(1657)に、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の3ケ村組合が、江戸幕府に願い出て水田用に分水した国分寺村分水の一部です。
市内の分水で最も古く、堀は昔のままの姿です。
これだけ深いお堀を掘ることは大変なことだったろうと思う。
国分寺の歴史の一端を伝え、現在の国分寺の基礎となるお堀と言えるかもしれません。
街歩きの途中、ほっとひと息つける場所です。
恋ヶ窪用水路に沿って、中世の鎌倉街道をイメージした緑道が整備されている。
緑道の南端には、武蔵野の湧水を連想させるように、水道の水飲み場が設けられている。
知る人ぞ知る隠れスポット。
恋ヶ窪用水は、玉川上水からの分水の一つです。
玉川上水は、1653年に多摩川の羽村から、江戸の四谷まで43kmを武蔵野台地の尾根筋を通って開削されました。
千川上水や野火止用水など、多くの分水が引かれ、多摩地域の農地開発が大いに進みました。
玉川兄弟が、玉川上水開削にいかに苦労したかは、講談「玉川上水」が古典落語として人気がありますので、是非一度お聞きください。
私の一押しです。
恋ヶ窪用水は、玉川上水からの分水で、明暦3年(1657)に開削されたとのこと。
現在用水跡は、深さ約5mの掘割が150mほど残されています。
用水はこの先姿見の池方面に向かっていたそうで、姿見の池緑地に用水を復元した水路があります。
なお、線路を挟んだ北側(上流側)にも、埋め立てられた用水跡が住宅に挟まれた状態で見ることができます。
夕方になるとたまにたぬきが出てきます。
遠ーいい昔この付近一帯では、雨が降っても作物が出来ないなどの問題で、玉川兄弟が作った玉川上水からこの付近一帯に水の流れを変えて✋出来たのが恋ヶ窪村分水で、過去の国分寺市の貴重な遺構として語り続けたくさんの人々に緑のたくさんある憩いの場として楽しんで行って貰いたく想います!
それまで草生え放題で通路は未舗装でしたが、綺麗に整備され水飲み場やベンチも設置されました。
保存された流路は一部が護岸補強されましたが、昔の雰囲気は十分感じられると思います。
距離が短いのは相変わらずですが、線路を挟んだ北側にも流路跡がまだ残ってますので、そちらにも足を延ばしてみるのも一興かと思います。
ただしコチラは流路が埋められ家々に挟まれていますので、外から眺めるだけに留めた方が良いかもしれません。
史跡として整備された。
工事中❗単なるどぶです。
武蔵野の林と流路が保存されていて、用水が使われていた時代を想像させてくれます。
林が残ってる場所は距離は短いですが、線路を挟んだ北側にも流路跡が続いていますので、そちらにも足を延ばしてみるのも一興かと思います。
ただしコチラは家々に挟まれていますので、外から眺めるだけに留めた方が良いかもしれません。
名前 |
恋ヶ窪分水跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
042-300-0073 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/smp/shisetsu/kouen/1005194/1018675.html |
評価 |
3.8 |
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江戸時代の初め、武蔵野台地は地下水位が低いことから人はほとんど住めない環境でした。
しかし、承応3 (1654) 年頃に玉川上水ができて分水が引かれると、各地に新田村が誕生し、 飲料水や生活用水、 田用水として水が使われました。
「上水記』 によれば玉川上水の分水で一番古いのは野火止用水で、それに次いで 「明暦3 (1657) 年願済」 と記された国分寺分水・砂川分水・小川分水が出来ました。
このうち国分寺分水は 「国分寺村外二ヶ村組合分水」 とも呼ばれ、途中で3本に枝分かれして国分寺村 、恋ヶ窪村と、 今の小金井市に含まれる貫井村が水を田に引くために利用しました。
分水口は小川新田 (西武国分寺線「鷹の台駅」 南方)にあり、野川に合流する流末まで一里半 (約6km) の長さで、水の利用料は一石五斗のお米、 後にはお金で納めました。
その後、明治3(1870) 年に玉川上水の分水口が統合されると、 今の砂川用水から分岐して水を引くようになりました。
この緑地内の恋ヶ窪村分水路は、堀幅が上端部で約6~9m、堀底で約 50cm、深さは約5mの規模で、堀底は北から南に向って低く傾斜しています。
玉川上水の分水にしては規模がひときわ大きな堀ですが、 それは分水口から南方の恋ヶ窪村まで水を流すのに、 さんや谷と恋ヶ窪谷と呼ばれる2つの谷に挟まれた、この付近一帯の小高い地形に水路を通すためと考えられます。
また、用水路の西側は中世の鎌倉街道を利用した道で、江戸時代には川越街道と呼ばれ、 昭和 19 (1944) 年頃に現在の府中街道が整備されるまで、 恋ヶ窪地域の主な幹線道路でした。
恋ヶ窪村分水は、 昭和 40 (1965) 年代初頭まで田用水として使われましたが、その後は大部分が暗渠となり姿を消しました。緑地内に残る恋ヶ窪村分水は、 玉川上水の分水のなかでも規模が大きな堀で、 後世に補修された形跡も無く、明暦3年当時の素掘りの形状を留めていることから、江戸時代の貴重な土木遺産として、開削後 360年目にあたる平成 29 (2017) 年に市の史跡として指定されました。