平湯民俗館前に「篠原無然」 記念館があります。
当館から徒歩3分、平湯民俗館前に「篠原無然」 記念館があります。
篠原無然(しのはら ぶぜん)大正13年、上宝の学校に奉職。
当村で教職のかたわら、青年会、婦人会などの指導に当たる一方、観光開発、登山道の改修、社会教育に尽力しました。
「平湯の父」といわれています。
どうぞ、ぶらりと散歩で、お立ち寄り下さい。
1、篠原無然先生略歴明治22年3月7日兵庫県美方郡西浜村諸寄にて篠原六一の長男に生まれる。
神戸商業学校に学び野口貿易商会及び三矢商会貿易部の事務を整理する後、病を得て静養のため郷里の兵庫県美方郡小代小学校に奉職。
青年男女の指導を行い、これに関するす著述を発行する。
後、後藤新平男爵の知遇を得て上京し早稲田大学に学ぶ後日本力行会で渡米青年男女学生及び苦学生の指導をする。
後不良青年を預かり感化事業を為し、地方青年指導上の著述を発表して床次氏(のちの内務大臣)の知遇を得、その紹介状及び東京朝日新聞社嘱託として、東北各県下の講演旅行を為す。
大正3年修養の為に父兄に決別して山中に入る。
大正3年8月、内務大臣床次竹次郎氏を介して岐阜県知事島田剛太郎氏の紹介状を得て飛騨入りし、吉城郡上宝村第一小学校に奉職を決定し上高地を経て帰京。
大正3年11月、飛騨山脈(北アルプス)上高地安房峠を越え上宝村第一小学校に奉職、後に、平湯分教場に転職する教職の傍ら、青年会、婦人会処女会等の指導啓発に努め、俗歌の改良乗鞍登山道の改修、指道標の完備に尽くす出稼婦女子の為に町村に工女組合を組織し、購買組合を設立、指導する。
毎年夏季には深山(輝山、福地、謐慈)草庵を結び思索生活を送る。
退職後は、平湯青年会館の階上に居を定め霊泉熱荘と号し、やわらぎのそのとして、これより各地を行脚し精神講話をなして、大正10年春には、大阪府嘱託後に東京市嘱託となり社会事業の研究に入る。
大正3年修養の為に父兄に決別して山中に入る。
後、平湯山中に帰り修養に専念していたが、大正12年9月の関東大震災を機に罹災者の慰問の旅に上り更に大阪の弟太郎の許に身を寄せ、女性に対する修養の目的をもって大阪難波病院(後のなにわ病院、篠原先生改名)に勤め、すさめ子入院娼婦の指導訓練に当たり、この間、多くの著作準備をする。
大正13年11月、大阪より帰山の途中、安房峠において吹雪のため遭難逝去する。
時に36才、無然と号し、筆名に自然子、霊泉隠士、嘉美高郎など昭和36年10月23日菩薩界総司所より勤瑞菩薩。
誰個人事実誰なのかはよく分からないそのサロム記念館だ(原文)누구 개인 사실 누구인지는 잘모르겠다그사럼 기념관 같다
当館から徒歩3分、平湯民俗館前に「篠原無然」 記念館があります。
篠原篠原無然(しのはら ぶぜん)大正13年、上宝の学校に奉職。
当村で教職のかたわら、青年会、婦人会などの指導に当たる一方、観光開発、登山道の改修、社会教育に尽力しました。
「平湯の父」といわれています。
どうぞ、ぶらりと散歩で、お立ち寄り下さい。
名前 |
篠原無然記念館 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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2021年9月5日、民俗館の温泉を利用した後に訪れました。
今までこんな施設が有ったことを知らずにいましたが、大正時代にこの地域に訪れた教育学者の「篠原無然(むぜん)」の功績などを展示した資料館でした。
青年の教育や工女の待遇改善などに尽力したほか、地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備したことなどを知り、36歳の若さで11月の吹雪の安房峠で命を落としたことを知りました。
バイクで何度も通っている安房峠(R158旧道)で以前、遭難者の石碑が建っているのを発見したことが有りましたが、ここでその石碑の人物だったことが判明しました。
またバイクで通った際は、手を合わせてお参りしようと思いました。