一向宗の棟梁が最後に追い詰められ最後は敗れ近くの手...
一向宗の棟梁が最後に追い詰められ最後は敗れ近くの手取川で斬首されたという歴史的な場所である。
棟梁は雑賀衆の鈴木一族ということからやはり鉄砲で応戦したんだらうか?眺めが良いので敵が来たらわかりそうではあります。
まぁ結果北から上杉(謙信は後で同盟)、南から織田が来たらどうしようもないですね。
歴史を感じます。
国指定史跡二曲城跡(史跡鳥越城跡附二曲城跡)一向一揆の城跡で標高267m(比高70m)の山上に築かれました。
山頂は削平され本丸となっておりいくつかの建物跡が平面展示されています。
曲輪は他に4つあり、それぞれ二の郭、三の郭、四の郭、五の郭とされています。
登山口には絵図もあるので順番に廻れるように散策すると良いでしょう。
四の郭には石垣遺構もあります。
【歴史】白山麓の一向宗門徒の砦で鈴木出羽守が守っていました。
織田軍の侵攻により天正8年(1580年)に落城するが、一向一揆の抵抗は続きました。
天正10年(1582年)には一揆衆が城を奪還するなど最後まで抵抗を続けるも再び落城し処刑されました。
【アクセス】白山市立鳥越一向一揆歴史館の南側すぐ城跡の西麓にある墓地公園に登山口があります。
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雪の中歩きましたが道が分からず…でも、楽しめました!
鳥越城とぜひセットで、主郭からは鳥越城もよく見えます。
一向一揆の強さと哀しさを感じます。
二曲城(ふとげじょう)は石川県白山市出合町にある中世の日本の城(山城)跡。
川の対岸にある鳥越城の附(つけたり)として国の史跡に指定されている。
府峠城とも言う。
この地は白山麓門徒の指導者であった鈴木氏の本拠で、城は鈴木氏の館の背後にある詰城であった。
城は大日川の河畔にある標高267メートルの独立峰城に築かれており、山頂が削平されていて郭となり、尾根上にも郭と堀がある。
令和2年6月21日(日)に行きましたが、二の郭跡と三の郭跡への道が立入禁止となっており、本丸跡と四の郭跡しか行けませんでした。
また、五の郭跡への道は草刈りがされておらず、道がわからない状態にしてあったので行けませんでした。
行けるところが少ないので、20分もかからずに全部を見て回れると思います。
前日から晴れていたので、今日は地面が乾いていました。
四の郭跡から本丸跡までは坂道が続き、また坂がきついところもあるため、湿っていると滑りそうな感じでした。
湿っている場合はスニーカーで行くのは少し危ないと思います。
車は一向一揆歴史館に停めて行きました。
白山麓門徒の指導者、鈴木氏の築城と伝わる。
近隣の鳥越城と共に一向一揆の拠点となり織田軍と戦うが落城。
その際に一揆衆300名余りが処刑されたとある。
遺構は郭が整備され堀切等が残る。
戦国期 加賀一向一揆の拠点だった。
二曲城(ふとげじょう)は石川県白山市出合町にある中世の日本の城(山城)跡。
川の対岸にある鳥越城の附(つけたり)として国の史跡に指定されている。
府峠城とも言う。
概要この地は白山麓門徒の指導者であった鈴木氏の本拠で、城は鈴木氏の館の背後にある詰城であった。
城は大日川の河畔にある標高267メートルの独立峰城に築かれており、山頂が削平されていて郭となり、尾根上にも郭と堀がある。
1580年(天正8年)に織田軍の攻撃により落城するが、さらに一向一揆の抵抗は続き1582年(天正10年)に一揆衆が城を奪還した。
しかし数か月後には再度落城し、一揆衆300人余りが処刑され一揆衆の抵抗は終わった。
【二曲城-Wikipedia】から引用。
国指定史跡鳥越城跡 附二曲城跡加賀一向一揆の最後の拠点となった山城で、手取川とその支流大日川に挟まれた標高312mの丘陵上を利用して築かれました。
天正8年(1580)から同10年(1582)にかけて、城主鈴木出羽守らを中心とする白山ろく山ノ内衆は、柴田勝家を中心とする織田軍と戦いとなり、双方で600人を超す死傷者がでました。
両城跡とも発掘調査が実施され、それらの成果は、一向一揆歴史館で見ることができます。
続日本百名城。
一向一揆の城跡。
織田信長と戦った。
鳥越城とセットで見るべし。
名前 |
二曲城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.hakusan.lg.jp/bunka/bunkazai/1006096/1002278/1002282.html |
評価 |
3.8 |
二曲城の登山口に、お仏供水が湧いています。