白川郷からの帰りに立ち寄ってみました。
帰雲城は飛騨国大野郡の国人であった内ヶ島氏の居城で、天正13年11月29日に発生した天正大地震で、帰雲山の崩壊で埋没した城で、城主であった内ヶ島氏理以下、その時に城と城下町にいた数百名が犠牲になっていると伝わっています。
なお帰雲城の場所は比定されておらず、帰雲城趾の碑の下に埋まっているわけでなく、碑と観音像、神社などを建てて犠牲者を祀り公園化した地のようです。
なお、当時の飛騨は金の産地で内ヶ島氏は多量の金を所有して他とも伝わり、帰雲城と共に多量の金も埋まっていると埋蔵金伝説がある城でもあります。
■帰雲城址岐阜県は白川村にある石碑。
帰雲城の城址推定地。
●国道156号線の脇に「帰雲城址」と記した石碑がある。
平成11年(1999)6月に石碑手前に謂われが書かれた石版が建立された。
帰雲城(かえりくもじょう)は、大野郡白川村三方崩山の下、保木脇にあったお城。
内ヶ島氏の居城であったが、安土桃山時代1586年の天正地震(てんしょうじしん)による山崩れで城と城下町全体の全てが埋没し、消えた。
天正地震で近江長浜城城主の山内一豊の娘が犠牲になる。
小牧・長久手の戦いから1年、秀吉が家康を攻める算段の矢先での此の天災が歴史を変えたのかも知れない。
石碑の後ろ右手に菩薩立像がある。
石碑の前に「帰り雲神社」の小さい社が見える。
白川郷からの帰りに立ち寄ってみました。
近くに数台車をとめれるスペースがあります。
帰雲城や帰り雲神社由来の書かれた碑や観音像・庭園があります。
私が訪れた時は偶然、建立者の関係者の方がおられ、帰雲城のお話を聞かせていただきました。
興味深い話で楽しませていただきました。
ありがとうございます。
2022年5月27日。
郡上市から白川村に行く国道156号線脇にあります。
前から気になってました。
帰雲城址とありますが、帰雲城埋没地ですね。
天正の大地震で山崩壊が起こり一瞬で城と城下が埋まってしまったと説明書きもあります。
供養の神社もあります。
実際に崩落した山も見えます。
幻の城跡と言われてますが、そこには歴史がちゃんとありました。
城主一族もそれが原因で断絶してます。
天正の大地震により、現帰雲山に大規模の山崩れが発生し、麓の帰雲城🏯とその城下町が土砂に呑み込まれ、城主内ヶ島氏及びその一族、家臣の数百人が犠牲になったとされる。
現在も帰雲山には崩落跡が残り、改めて自然に対する畏怖を感じます。
何時の時代も地震は脅威ですね。
今でこそ、緊急地震速報がありますが、当時のことを考えると・・・。
一夜で城と集落が全滅。
天正地震による山体崩壊跡もくっきり残っており、自然の畏怖を感じれる場所です。
1586年の天正地震で帰雲山が崩落し帰雲城と城下町が一瞬のうちに埋没したとのことです。
埋蔵金伝説があります。
この地を治めていた内ヶ島氏が築城。
天正の大地震で、帰雲山が大規模な山崩れを起こし、城と城下町全てが埋没。
内ヶ島氏が金山を保有していた事から、埋蔵金伝説が残る城となってます。
城の正確な場所は特定されてなく、石碑のある場所はあくまで推定地です。
城趾を示す石碑の他に神社や供養碑などが建立されてます。
数百年前に起きた山崩れにより、城と城下、多数の家臣たちが巻き込まれたという。
山崩れの痕跡は今も残り、時にこういう事が起こり得るのだということを教えてくれているようです。
天正の地震でしたっけ?城から町飲み込んで一瞬にして消えました。
大地震で一夜にして集落ごと埋没した伝説の城趾です。
内島(内ヶ島)氏の居城だったとされてます。
金で(おそらく焔硝も?)かなりの財がを保有していたとされてますから、埋蔵(埋没)金の伝承もあり、いろんな意味で思いを馳せるには良いですね♪
標高580m、伝説の埋没城。
どこにあったかも説がわかれてる..庄川西側説に案内板、石碑、神社などなどがあった。
散策しても、なーーんにも遺構は見つからないし、6月は草ボウボウ。
(((^^;)ちょっと下りて川からみると、確かに崩れた地形がわかる.キガスル.庄川の水はとーっっても冷たくって真夏でも涼しげ(о´∀`о)♪東側説の山は..雲でまったく見えなかった。
(^o^;)字のごとく雲のなかだった..個人的には.石碑のあるとこには屋敷、山の上には見張り台ぐらいだったんでないの説をカキコんどくよん。
某PCゲームデフォルトの城巡り山体崩落なんて言葉ブラタモリの磐梯編で知ったけど、ここも見事に崩れ落ちている...近くの場所でも同じような。
光景が見れました。
天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震である。
飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した。
また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。
埋蔵金伝説の残る城跡です。
帰雲城は、室町時代将軍足利義政の頃に白川郷に派遣された内ヶ里氏によって築城されました。
峻険な山々に囲まれたこの城は戦国時代には上杉謙信をも退けました。
織田信長が本能寺で倒れた後、秀吉の佐々攻め(富山の役)の際、佐々方についた内ヶ島氏は城主の不在の間に秀吉方の金森長近に城を奪われます。
後に内ヶ島氏は秀吉に和睦を乞い城は返されました。
和睦を祝う宴が開かれていた天正13年(1585年)11月29日、近畿・北陸・東海に大きな被害をもたらした天正地震が発生し帰雲山の西側斜面が崩壊、麓にあった帰雲城は城下町とともに土砂に埋まり一夜にして消え失せてしまいました。
城と共に滅びてしまった内ヶ島氏ですが鉱山開発の技術を持っていたとも言われ、この地には今も埋蔵金伝説が残っております。
この下に中世の町が。
雲が空に帰る場所、という伝承より帰雲山と名前が付いた山の麓にあったとされる帰雲城。
今からおよそ450年前、天正大地震により山体崩壊を引き起こし、内ケ島氏一族郎党と城下町を飲み込んだ場所。
現在は、地政学的に城があったであろう場所に石碑と小さい社がある。
山体崩壊を引き起こした場所は現代となってもハッキリ残っている。
巨大地震の怖さを、改めて思い知る場所でもあろう。
この場所に住み、山に飲み込まれた全ての方々に合掌。
一夜にして滅亡した城。
石碑の奥にある山が崩落し、丸ごと埋まってしまった城ですね。
GoogleMAPで写真にしてみると、崩れただろう場所がよく分かります。
多分この辺りって感じですが歴史の浪漫感じました。
名前 |
帰雲城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
現在でもハッキリした場所はわからないらしい。
川向うの山がいまだにがけ崩れの崩落跡が生々しく残っている。
ここには石碑と説明板があるだけ。
豊臣対徳川の歴史を変えるような地震がいかに凄かったか伝える城跡。